フォト
2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 罪について | トップページ | 罪を赦すということ »

2008年6月 8日 (日)

続、罪について

罪には、聖書では、原罪、思いの罪、行ないの罪があることになっています。わたしたちが刑法で裁かれるのは、この行ないの罪だけです。

イエスはいわれる、思いの罪も罪だよ、と。不倫とか殺人とか盗みはしていません。だから罪を犯していません、といってもダメ。思いは全ての行為の元だから、そこまでいけば罪を犯していない人はいない。

イエスは、腹を立てるな、みだらな思いを抱くな、といわれました。腹を立てるのは殺人のもとだから。みだらな思いで他人の妻を見るのはすでに姦淫したのと同じ、という。これらはすべて思いの罪ですが、思いの罪は行ないの罪に通じます。


悪事に手を染めたに人には、思いの罪を悟らせるのは容易だと思います。自分の生き方に大きな問題がないと信じている人に、目に見えない思いの罪を悟らせるのは厄介です。

さらに、自分が病気だと気づかない人、自分はつねに健やかだ、正しいと自負する人、このような人は自分の罪を自覚していないので、悔い改めることも無い。

イエスはそのような人に罪を示すために来られました。罪を示し悔い改める機会を与えるためにです。人はイエスの言葉を信じ、己の罪を自覚し悔い改めれば、創造主である神に義とみなされて、罪が赦され死(霊の)から救われ新しい永遠の命が与えられる。

何が罪か分からなければ、それはイエスを信じれば聖霊が教えてくださる。もちろん、良心も神から与えられたもので罪を示します。

しかし、良心は個人個人の人間関係に対しては非常に有効だと思うのですが、社会とか共同体においてはときとしてゆがめられます。そのような場所では、良心はその自由を真の意味で発揮できません。

ところで「良心」は、日本語では「良い心」を意味するものとなっていますが、英語や新約聖書の原語のギリシャ語では、「共に」という意味の接頭語と「知る」という意味の語が合わさって出来ているということです。

つまり「共に知る」という意味を持っている語なのです。自分自身と、もう一人の存在「神」が指し示されると共に、その両者の共同作業で善悪の判断がなされることを示唆している語となっているわけです。

つまり、「人間の良心」が正しく機能できるためには、やはり神を恐れ敬う信仰心が不可欠だということなのです。

新約聖書ルカによる福音書第5章31節から32節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではない。罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

行ないの罪にしても具体的に例を挙げると、いじめたり、カンニングしたり、障害がある人とか勉強の出来ない人を見下したり、子供のとき親のお金を盗んだり、親から借りたお金を返さなかったり、親を悲しめたり、子供に邪険にあたったり、ライバルの同僚を蹴落としたり、これらすべて罪、といえば誰にでも経験があるのではなかろうか。

それらのことが罪だと気がつかないわたしたちは、それほど、罪に疎くなっています。

わたしたちは、人の過ちは目に付くので、人が罪を犯せばすぐに責めます。口で責めなくても心で責めている場合も大いにあります。

これは自分を基準として人を裁いていることになります。このような自己中心も罪です。

自分も過ちを犯した人間、この世に完璧な人間なんていない、だから、人を裁く資格も無いという自覚。

人生振り返れば、物心ついたときから今日まで大小さまざまな罪を犯してきました。罪を犯したといっても普通の人は、前記のように具体的に例を挙げなければ、ピンとこない。

わたしは、不倫とか殺人とか盗みはしていません。だから罪を犯していません。この世の法律に抵触しないから罪を犯していないという。
この世の法律は人を裁く最後のよりどころ。人間ならその前に守るべきもの、道徳があり、社会習慣があり、良心がある。

イエスはさらに行ないの罪の元、思いの罪も罪といわれました。この世の法律は、行ないの罪だけを裁くものです。

行ないの罪は結果を裁くものだから、この世から行ないの罪をなくそうとすれば思いの罪を無くする必要があります。イエスはその方法を教えにこの世にこられたのです。

罪の大本は原罪です。原罪とは人間が神から離反したことをいいます。神から離反したことにより、神の霊的な力が人間に入らなくなり、この世の闇の支配者サタンは人間の悪い性質に強く影響を及ぼすようになります。

人間はその影響をもろに受けるようになります。そして、神から離反し、神の栄光を受けられなくなった人間は、そのために、もともと霊的に永遠に生きる存在であった人間は、死ぬべきものとなるのです。

神は人間の命の根源ということです。

罪の報いは死でありますが、神の一方的な恩恵により、神を愛し、御子イエスの御言葉を信じれば罪を赦し、死ぬべき運命から救ってあげるといわれています。

地上でイエスを信じないで死んだ者は、最後の審判でその人を地上における行いをもって裁くといわれています。

イエスは十字架に架けられ死ぬことによって、人間の罪を贖い、サタンに勝利し、死から復活することによって死に勝利したことを実証されました。

同時に自分が神の子であることを実証されました。原罪の贖いは神の御子であるイエスにしか出来ないことなのです。

イエスはサタンに勝利し、この世は神の支配下に置かれたのですが、サタンは未だに人間世界に影響力を行使しています。

しかし、イエスを地上で信じたものは義(罪がない者とみなされる)とされているので、罪を裁かれることはない。だから罪のない者しか行けない天国へいけるのです。

世の中これだけ罪が蔓延していると、わたしたちは罪に対して鈍くなっています。新約聖書ヨハネの黙示録第3章15節から16節にこのようなことが書いてあります。「わたしはあなたの行ないを知っている。

あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」

たしかに、そのような人は、罪を悟らせ悔い改めさせるのは厄介だ。よく考えると、わたしもその口かもしれない。歳を行けば物事に疎くなる。気をつけねばと思います。心を常に熱く保つのは大変です。

« 罪について | トップページ | 罪を赦すということ »

聖書と人生」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 続、罪について:

« 罪について | トップページ | 罪を赦すということ »