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2008年6月28日 (土)

新しいことがおこる

現代は革新の時代といわれています。次々に新しいものがわたしたちの目の前に現れます。
新聞は毎日のように新しい製品の出現を報じています。

品物だけではない、新しい考え、新しい思想がどんどん現われて、時代は確実に新しくなっていくように見えます。わたしなど、あらゆる面でついていけない、と思う今日この頃であります。

また、少し興味がもてる新しいことに出会っても、そのとき少し心がときめきますがすぐに冷めてしまいます。
毎日のように、新しいこと、驚くことがでてきますが、驚きもその場限りで後の残ることは殆どありません。

一つ一つの出来事は当事者にとっては大変なことなのでしょうけれど、傍観者であるこのわたしは、マンネリ化してしまって無感動になっています。


ひとたび昔を振り返ると、現代の人間も昔の人間と全く同じ事をしていることに気づきます。愛したり憎んだり、人を殺したり殺されたり、泣いたり笑ったり、生活に苦労したり快楽に耽ったり、病み、老い、そして死んでいきます。

聖書を読むと、現代人が体験している事は、約2000年前の人間も同じように物事を考え体験していたことが分かります。

人間の本質はすこしも変わっていない。だから自分の人生を変えるほどの大きなことはそうそう起こることではありません。人生で起こることは、ほとんど誰かが既に経験したことだと言えます。

このような人の世に、2000年前に全く新しいことが起こりました。キリストが死人の中から復活されたのです。それは歴史上にはなかったことです。

伝説はありました。約束と待望はありました。しかし現実に墓に葬られた人間が復活して、地上の人々の前に顕れたのはかってなかったことです。

キリストは、霊の世界というか、次の世があることをわが身の復活をもってはじめて実証されました。それは余りにも奇想天外な事であったので、当時、直接その復活に出会った人も、にわかには信じがたかったようです。

人間は経験に生きる動物ですから、経験外の事が起ると、それが事実であっても戸惑います。拒否します。受け入れるには大変困難が伴います。

それでも聖書を読み、そのことを信じて受け入れた人が、イエスの復活以降次から次へと起こされたのは、どのように説明すればよいのでしょうか。

死からの復活が事実であったからといえないでしょうか。そこには何か見えない世界からの働きかけがあるからではないでしょか。キリスト教の歴史がそれを如実に示しています。

神様は、罪のもとにある人間を、罪の為に死ぬべき人間を、神様の一方的な恩恵により、イエスの十字架でその罪を贖われました。

神様を愛し、御子イエスの御言葉を信じれば、天国へ入れてあげると言われました。

イエスは十字架に架けられ死ぬことにより人間の罪を贖い、サタンに勝利し、死から復活することによって死に勝利したことを実証されました。

同時にこれはイエスが神の子であること、次の世があること、肉体の死と霊の死は別であることを実証しています。

旧約聖書を読むと、確かに神様は罪を犯した人間を罰しましたが、新約聖書においては、救いの道を示されました。救いのチャンスは誰にでも与えられましたが、その恵みを得るためには方法は一つ、イエスの言葉を信じなければなりません。

そのことを全人類に伝えるために、人間に伝道と言うまことに人間らしい方法を要請されました。

人間に伝道という、行為と努力を求めておられるのです。伝道と言う方法は、個人から個人にわたしの言葉を伝えなさいうと言うことです。だから、信じるか否かは個人の選択にあるといえます。

人間を救うのに、このようにまことに邪魔くさい方法をとられたのは、人間と神様の問題はあくまで個人の問題で、救われるためには、個人としての人間から神様へ自由意志のもとで救いを求める意思表示をする必要があるということになります。

逆にいえば、自由意志ですから、神様の方を向かないという選択もできます。その場合は、救いようがないということになります。そして、イエスの御言葉を、神様をあくまで拒否する者は不本意であるが地獄へ送るといわれています。

イエスを知らずに死んだ者は、最後の審判まで裁きが据え置かれて、行いによって裁くと言われています。こうしてみると、まことに神様は罰すべきものは罰し、赦すべき者は赦されています。

このように、約2000年前にこの人間社会に、全く新しいことがおこったのです。それも想像を絶する前代未聞の新しいこと。

いま人間一人一人は、選択が求められています。信じがたいけれど、イエスの言葉を信じるか否かの選択が求められています。

明日では遅いのです。明日も自分が生きているかどうかは、われわれにはわかりません。明日キリストの再臨が、裁きがあるかも知れないのです。それからではもう遅いのです。

そのことを信じるかどうかは自由ですが、一度聖書を読んでみることをお勧めします。聖書を読めば読むほど否定できなくなるのです。このことは多くの人が身を持って実証しています。

わたしは再び来ると、イエスは忠告される。また新しいことが起ると言われる。

「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。」(新約聖書マルコによる福音書13章32節)。

そして、いつそのことが起こるかは、地上の人間が知ることを許される性質のことではない、と警告される。

人の子の顕現(人の子とはイエスのこと)あるいはキリストの来臨という事態は、完全に歴史を超えた次元(時間の外)のことですから、歴史の中に位置づけることはできません。

すなわち、時間と空間の次元に存在する人間にとって、その出来事の時期と様態は知ることができない性格のものであるといえます。

イエスもその時がいつであるかは示しておられない。その時がいつ来るか分からないからこそ、いつ来てもよいように、いつも目を覚ましていなさいといわれる。

全く新しいことと言うのは、人間にとって信じがたいことです。なぜなら人間は経験したことの延長線上でしか物事を考えられない動物であると思うからです。

いま地上世界に生きる人間は、イエスの復活を目で見ていません。それでもわたしの言葉を信じることができれば幸いだといわれる。

今回書いたことは、イエスの言葉を信じていない人にとっては、信じがたいことだと思います。

しかし、キリスト教の人間の歴史を見ると、そのことを信じなかったら起こり得ないと思われる出来事が多すぎるのです。

人間社会を紀元前と紀元後で二分されたように、一人の人間の人生を、信じる前と信じた後で180度変えてしまう二分する力を持っているのです。あなたも180度人生を変えてみませんか。

イエスの復活を信じることができれば、それは可能です。決しておとぎ話ではありません。全世界人口の三分の一以上の人がそのことを信じているのです。

イエスは言われる、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(新約聖書ヨハネによる福音書20章29節)。

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