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2008年6月16日 (月)

罪を赦すということ

われわれは、もし自分の子供が殺されたら、犯人を赦せるだろうか。人の子の親なら簡単には赦せないのが当たり前。加害者と示談するにしても、示談してしまえば、このやるせない気持ちを何処へもっていけばよいのか。

幾らお金を貰っても死んだ息子は帰ってこない。命はお金では代えられない、だけどお金で償うしか方法が無い。
この場合、お金はあきらめ料。ならば幾ら払えばいいのかといわれても、金額なんて決められない。

こんなこと当たり前。このようなことみんな分かっている、分かっているけれどこのまま終わらせたくない。被害者の気持ちは複雑です。


随分前の新聞で、アメリカの話ですが、子供が殺された親が加害者を許す告白をしている記事を見かけました。その親は、きっと、信仰の厚いキリスト教徒なのだと感心しながら新聞記事を読んだのを覚えています。

旧約聖書の頃は、「同害報復法」、つまり目には目を、歯に歯を、と言う方法で解決をしていました。そのような法を必要としたのは、まだ人類はあらゆる面で未開であったからと思われます。

だが、それでは現在社会では秩序が保てません。現在は、法律で国家が裁くことになっています。個人のリンチは赦されない。

個人のリンチを許せば社会は混乱し、秩序は保てません。そういう意味では、人間社会も進歩しているのですね。

しかし、イエスは復讐を制限するために悪を持って悪を制するのではなく善を持って悪に立ち向かい、報復の悪循環を断ち切るよう教えられました。そして神様は、「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」といわれました。

さらにイエスは言われる、罪を犯した者を、7の70倍まで赦しなさいと。7は完全数、よって70は無限大。

つまりどのような罪を犯した者でも、何回も罪を犯した者でも、裁くな赦しなさいといわれます(新約聖書マタイによる福音書18章21節)。

完全に赦しなさいと言われる。この赦すということは、その人が自分に犯した罪を受け入れて忘れなさいということです。

そのような馬鹿なことができるか、とわたしたちは思いますが、聖書には、自分が受けた神様の愛を知れば人を赦せると書いてあります。

ということは、神様を知らなければ人を赦せない。先に書いた、アメリカのキリスト教徒の話を知ると、本当に神様の愛を知れば敵をも許せるかもしれません。

神様と正しい関係にあって初めて人間は、自分の神様に対する罪、その赦し、神様の愛を知ることができる。

もちろん、このような話も、神様の存在を認めていない、今自分が生きているのは自分が強いからだ、優秀だからと思っている人には通じません。

もちろん、イエスが言われる裁くなというのは個人の問題で、現在の社会制度、国家が法律で裁くことは必要で、イエスも禁じられているわけではありません。不完全である人間の社会の秩序を保つためには必要なことだと思います。

殺人でなくても、日常よくあること、例えば、抜け駆けする人、ずるい人、仕事にいつもケチをつける上司、いやなうわさを立てる人、嫌がらせをする人。わたしたちは、毎日、ちょっと困った人々と関係しています。

そして、わたしたちは、日常のように、ちょっと何か言われれば腹を立て、すぐに人を心の中で裁いてしまいます。

わたしたちの周りには、気持ちのよい人ばかりいるわけではありません。そのような罪は、考え方一つで赦せるかもしれません。

思うのですが、そのような軽い罪も殺人のような重い罪も、思いの罪も罪だといわれる神様から見ればどれほどの差があるのだろうか。

刑法に違反する罪は社会秩序を保つために国家が裁きますが、被害者である個人が加害者を自分の手で裁くのは許されていません。わたしたちにとっての問題はそういう個人の裁きです。

聖書では、わたしたちは1人残らず罪人です。つまり、生まれながら原罪を負う者。さらにイエスはいわれる、思いの罪も罪だよ、と。不倫とか殺人とか盗みはしていません。

だから罪を犯していません、といってもダメ。思いは全ての行為の元だから、そこまで行けば罪を犯していない人は誰もいない。

イエスは、腹を立てるな、みだらな思いを抱くな、といわれた。腹を立てるのは殺人のもとだから。みだらな思いで他人の妻を見るのはすでに姦淫したのと同じ、という。これらはすべて思いの罪。思いの罪は行ないの罪に通じる。

過去の歴史を見ると、わたしたちは計り知れない罪を犯しています。人類の歴史は、戦争と殺戮、そして惨事の歴史です。

今もどこかで戦争をしています。そのようなことはどこかよその国のこと、過去のことで自分には関係がない、とおっしゃる方もいるでしょうか、考えてみてください、もし、殺人を犯した人(その人がよその国の人であろうが、過去の人であろうがです)の立場にあなたが置かれたとしたら、あなたはどうしますか。

やはり同じようなことをしているのではないでしょうか。

このように、わたしたちは自分が殺人を犯していないからと言って、自分は関係ないなどとは言えないのです。殺人を犯した人もわたしも同じ性質を持つ神の前に罪人なのです。

だから、誰でもおかれた立場で殺人者になる可能性があると言えます。たまたま自分が殺人を犯していないのは、そういう立場に合わないように配慮して下さった、神様の恵みといえます。

こうしてわたしたちは、日ごと罪を犯すたびに神様に負い目が出来る。それでも生かされているのは、神様の恩恵のほかなにもないことを自覚しなさいといわれる。

いやいや、もっと大きな罪があった。神様からもらった神様に対する大きな罪、それはこの自然環境の破壊。

この自然は神様からもらった貴重な財産。神様から授かった、管理をゆだねられた財産の無駄遣い。人間は、自然を必要以上に乱開発し、無駄遣いしている。

将来それが自分の首をしめることになる。神様がこの自然のバランスを維持されているが、この人間のうぬぼれは神様への挑戦だ。神様も忍耐されるが忍耐の限界が来れば人類はバベルの塔の二の舞になるかもしれない。

せっかく神様から貰った知恵も、使い方により、無駄使いどころか災いになることもある。お金,物、地位、名誉、名声・・・。

これみな神様から貰ったもの。自分が努力して得たものという方もおられますが、所詮被造物である人間、何をしても神様の御手の内、神様が許されているから得られたもの。

いわゆるその人が神様からもらった賜物を生かしたことへの祝福といえます。この世に人間が無から有を造ったものなど一つもありません。

神様である父の気持ちも分からずに、金とか地位とか名声を求めることに明け暮れる現代の放蕩息子である私達。

ルカによる福音書第15章11節以下に放蕩息子のたとえ話のように、神様はわたしたち放蕩息子に言われる。

わたしのもとに帰ってきなさい、わたしは首を長くして待っている、と。帰ってくれば、無条件で今までの罪は全部赦してあげる。いや、もうすでに赦している、と神様は言われる。

今日の聖句、「あなたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」新約聖書マタイによる福音書5章38節。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」新約聖書ローマの信徒への手紙12章19。

神様から見れば、人間は毎日のように罪を犯している状態です。何が真実かもわからず罪に埋もれているのです。人間渦中にいると真実が見えないといいますが、まさにそのような状態なのです。

罪人が罪人を裁くことなどできるのでしょうか。人を裁けるのは創造主である神様だけです。そのように思っていても、人間は弱い者、思わず人を裁いてしまいます。

そういうときは、自分の未熟さ、弱さを思い、神様に赦しを願うために祈ります。

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