一粒の麦
人はこの世に生れて多くに人に関わりをもって死んでいきます。人が人と関わることによって生じる波紋は、大小いろいろです。それは親族であり知人であり会社の同僚であり、少し有名な人で書き残したものがあるならそれを読んだ読者などでしょう。
しかし、生前にどれだけ大きな波紋を残しても、日がたつごとに生きている者の心からその人の存在は薄れていきます。そして、死んだ者を知っていた人全てが死ねば、その人は殆ど完全にこの世から忘れ去られます。
生きているときに、どんなに大きな存在感があっても、遅かれ早かれいずれは忘れられていくのが普通です。
もちろん、アインシュタインのような偉大な科学者は、残した功績と名は残り続けるでしょう。功績と名は残り続けますが、アインシュタインという人間そのものは残りません。
もっと言えば、いかに偉大なアインシュタインでも、その命が残った人の心の中で躍動することはありません。
アインシュタインの残した功績に人生を、命を賭けようとする人もいないでしょう。死んでしまって過去の人となってしまったのだから当たり前です。
ところがここに、生前より死んでからのほうがはるかに大きな影響を、この2000年間の人類の歴史に残した人がいます。
その人は生きているときは、その影響はパレスチナの一地域でありましたが、死後全世界の人に影響を及ぼし、今も、そして将来もおそらく人類が存続する限り人類の歴史に影響を及ぼし続けるでしょう。
その人はイエス・キリストです。どのようにして影響を与えたかといいますと、それはその人とイエスの言葉、聖書との出会いなのです。イエスの言葉が、出会った人の中で躍動するのです。
言い方を変えれば、言葉に命があるのです。人は人と出会うことで人に影響を及ぼしますが、イエスの場合は、その人がイエスの言葉、聖書と出会うことでその人の人生に影響を及ぼすのです。
聖書に凄い言葉があります。イエスが身を持って示された事実を紹介します。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」新約聖書ヨハネによる福音書12章24節
イエスは御自分の死の意義を麦の種子にたとえて語られました。わたしの身体の内にある永遠の命を与える力は、父からわたしのうちに注ぎ込まれている。
わたしが死ねば、永遠の命を与える力は信じる全ての人に流れ込む、と語られました。
この永遠の命を与える力とは、イエスの死後この世にイエスの代わりに降られた神の霊、聖霊のことです。現在も遍くこの世に存在し、働かれています。
先の聖句の中の「自分の命を愛する者はそれを失う」の、自分の命を愛するとは、この世の物、学歴や仕事や地位や財産などを求めて生きる命、いわゆる自己中心、自我を満足させるために生きることをいいます。
この命は、わたしたちが生まれながらに持っている動植物も持っている自然の命のことです。
自分が生まれながら持っている自然の命に執着して、自分の命は自分のものだ、自分の人生は自分のものだと思って生きるなら、
結局は、そこから得た物、つまり、地位とか名誉とか財産などはこの肉体の死と同時に失うことになる、と言っておられる。
聖句の「自分の命を憎む」とは、生れながら持っている命、つまり、自己中心とか自我に執着した生き方、次の世に持っていけないようなものに執着するような生き方から離れること。
憎むというのはすこし誇張した言い方ですが、この世のものに必要以上に執着しないということだと思います。
現実には、少しは執着しなかったら現世を生きてはいけません。
いわゆる人生で何が一番大切かという、選択と程度の問題だと思います。
そのような、次の世に持っていけない、この肉体が滅んだら無くなってしまう物に縛られて生きる人生ではなく、一番にこの命を与えてくださった神を愛し、神のために、自分の命や与えられたものを生かして生きる。
そこに永遠の命、永遠の価値をもつ人生の道があると、教えておられるのだと思います。
聖句の「それを保って永遠の命に至る」とは、生れながらの命、自我とか自己中心性に執着せず、それから離れる人生を送ることによって、この世に属さない別の種類の命、「永遠の命」を得ることができるということ。
こうして、永遠の命を得ることが、生まれながらの命の意義を全うすることになる、といわれていると思います。
その言葉は、やがてイエスの身におこること、つまり、十字架の死と復活の出来事で真実であることが実証されることになります。
どうして実証されたことになるかといいますと、イエスが復活されることは、復活が神にしかできない神の御業ですから、イエスが神の御子であることが分かります。イエスが神の子ならイエスの言葉はすべて事実であり実現することだと言えます。
こうして、イエスは、死と命が一つに結びついてこそ豊かな実りを得るという真理を教えられました。
事実この言葉を残したイエス自身が、十字架の死を通して全世界に聖霊という命の種を蒔き、命の実を豊かに実らせました。
その後の歴史を見ると、イエスの御言葉を伝える世界宗教となったキリスト教の歴史がそれを証明しています。
信じられますか、これは歴史的事実なのです。自分の命をかけて人生の真理を教える、そしてその教えが事実となる。こんな教祖はいませんよ。わたしがイエスの教えから離れられないのはこれなのです。
もし、先の聖句、イエスの言葉が作り話なら、十字架以降イエスの言葉に触れ、人生を変えられた人、命をかけてイエスを信じて死んでいった人がこの2000年間次から次へと起こされた事実はどのように説明すればよいのでしょうか。
その流れの中に何か目に見えない力が働いていると考えてもおかしくはないと思います。
今も世界のどこかで、イエスの言葉に触れ、信じる者が起こされています。
そのことは、イエスが天に昇られた後イエスの内にあった永遠の命を与える力である神の霊、聖霊と同じ霊がこの世に降られ、イエスを信じた者に内住され働かれたことの結果なのです。
聖霊といっても目に見えないから分からないけれども、イエスを信じた人はすべて信仰をもって聖霊の存在と働きを自覚しているのです。
だからイエスの言葉に命を、人生をかけることができるのです。
このようなことを言った人がいました。「イエスのいうことが事実なら、イエスを信じる者には、すばらしい生涯と次の世が待っていることになる。
でも、もしイエスの言葉が嘘なら私の人生は肉体の死によって消えてなくなるだけです。ならば信じる方に賭けてみたらどうだろうか。」と。
また、このような話があります。ある無神論者が、一通りイエスのことを聞いた上で言われました。
「もし、本当にイエスという方がいたなら、もし本当にその方がこの世の歴史の中に生きていて、苦しんで死んだのなら、おれも本気で考えてみなければならない。
今までの、自分のものの見方や生き方を考え直さなければならない」、と。
おそらくほとんどの人は、イエスなんて遠い昔のどこかの作り話か、神話のなかの人物で、キリスト教の観念的な神では、としか思っておられないのではないでしょうか。
イエスなんて、今の自分と何のかかわりもないものと決めてかかっているのではないでしょうか。
しかし、現実のイエスはそのように簡単に無視ができるほど人類の歴史にとって軽い存在ではないのです。
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