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2008年5月 1日 (木)

人生は選択の連続である

このような言葉があります。「何を選ぶかは、何かを断念することである」。本当に、人間の一生は、何かを選んで何かを断念することの連続だと思います。

大小様々な選択、選ぶことに伴う断念する辛さも選択の大小で様々。選んだことも、思い通りになる確証などないのですが、だからといって選ばなければ前には進みません。

小さな選択が、長い人生で思わぬ方向に進み、予測した道より大きく外れてしまうこともあります。本当に人生とは思うようにならないものです。


選択したことの遂行は、一般的には本人の努力にかかっています。努力もしないで、ただ待っていても良い結果は得られません。結果がどのようになるかは、ほぼその人の努力に比例する様ですが、一概に言えないところもあるから難しい。

選択が間違っていることに気がつけば、執着せずに早くあきらめることも大切ですが、愚直が良い場合もある。どちらにしても、時間がたっぷりある、失敗したときでも打撃が少ない若い時は、いろんなことに挑戦することも必要かと思います。

選択するとき、あるいは選択した後で迷った時、日本人は、普通は手を合わせて神頼み、と思いきや、なぜだか仏壇とかお寺とかお地蔵さんとか神棚とか、はたまた神木とかいって大きな木にお願いします。

何にでも手を合わせてお願いします。そのような人を見ていて、お願いした神様は何処にいるのだろうか、と思うわたしはいやな奴でしょういか。本当に真剣にお願いしているのだろうか、ただの気休めではないのかと思う。

なぜもっと真面目に、本当に聞いて下さる、生きて働いている神様をさがさないのだろうか。それほど敬虔で信仰心が篤いのなら尚更だと思うのですが。

今良かれと思って選択しても、あとから病気になったり、怪我をしたり、本人の努力以外の理由で断念すること、また結果により後悔することも大いにあります。

学校の選択、結婚相手の選択、職場の選択その他人生には大小さまざまな選択があります。職場における人事異動は選択の余地が無く殆ど強制です。

拒否したら会社の意向に沿わない人間としてのレッテルを張られて、その後の昇進に大きな影響を及ぼします。

もちろん、どのような上司につくかも大きな影響を及ぼすでしょう。いろいろ考えて、これで良かれと思っても、悪い方向に人生が向くこともたびたびであります。

本当に、わたしたちには先は見えません。何かを選択するとき、その先どのようなことが起こるかは、一応考えてみるが確かなところはわからない。この様なとき、今も生きて働いておられる神様を信じていたら心強い。

精神心理学者フロイトは、「人間の全ての行動には、必ず理由がある」と言っている。偶然にする行動、選択にも必ず理由があると言っている。

人間は年を取るほど、選択の余地は狭くなります。いいかえれば、その人が生きてきたようにしか選択できないということになります。

また、自分ではどうしょうもない、持って生まれたものとか与えられた環境も大きく影響するでしょう。そうであれば、やはり選択には原因があり理由があるのかも知れない。

人間生まれたときが、一番選択の余地が大きいと思いますが、生まれた国とか親とか自分の力ではどうしょうもない環境でやはり選択はある程度、人によっては大いに制約されています。

また、こんな神学者がおられます。「人生でその人に起こる事は全て神の計画であり、決して偶然ではない」と。何月何日にあるところで誰が会うということも偶然ではなく神の計画であるという信仰であります。

人間は選択し、いろいろ計画を立てる動物であります。実現するかしないかは神様が決められること。一人ひとりの人間には神様が決められたご計画がある。

といっても、人間には自由意志がありますから、選択の自由もあります。神様は人間に選択の自由を与えておいて、最終的には御心に沿った人生を送るように導かれると思うのです。

つまり、人間が自由意志で選択した人生の体験のすべてを用いてみ心に沿った人生に導かれると思うのです。

だから人生で体験することのすべてに無駄がないと言えると思うのです。そうであれば、どのような出来事にも勇気を持ってあたっていけると思うのですが。

わたしの信仰は、まだまだそこまでいかない。ついつい自分の力に頼ってしまいます。未熟者です。けれども、もしそのように確信がもてたらどんなに人生が楽になるであろうかと思います。

必要以上に心配をしなくてもよいし、選択にあまり迷わなくてもよくなるのではなかろうか。一度決めたらあとは神様にお任せ。なるようになるさ、ケセラセラの心境ですむかも知れません。

神様は怠けろとは決して言われていないと思います。神様は導かれるけれども、寝ている者を強引に起こして引っ張っていこうとはされない。

神様はただチャンスを与え、導かれるだけで、そのチャンスを選択し努力するのは人間です。その選択が御心ならばその人にとって必ず良い結果になります。

もちろん、良い結果といっても神様の価値観から見てです。だから、たとえ大変困難な状況になっても、そのことがその人にとって良いことかもしれない。そういう場合もあるわけです。

与えられた場で一生懸命やっていれば、もし神様がそこに留まれと言われるなら留めて下さるし、何か新しい道を開いてくださるならそのようになる。

すでに選択していることが、神様の御心に添うかどうかは分からないが、今わたしがいるところ、すなわち、わたしの家庭、職場、今の時代、今の知人・友人とのつながり、全て神様が用意されたもので、わたしはここに派遣されてきていると考えれば良いのだと思います。

全ては御手の内、この世のことは永遠の命のひと時、すべてを神様が支配されているのだから、神様が許されていないことは起こらないし、起っていることは、許されていることといえる。人生これ自然体ですね。

キリスト教はこういう意味で他力本願の宗教です。

信仰を持つとは、強いものです。クリスチャンは、どのような時にでも、イエスの父なる神様に祈り、いつも神様の声を聞こうと努めています。寝ても起きてもです。

与えられた導きを信じるなら必ず先には備えがある。一つ一つの決断を支えられる神様が、その決断を全て益としてくださる。災い転じて福とされるです。このことを信じて祈っています。

そういう意味で、キリストを選択し、信じて生きる者は、なにしろ絶対に信頼を置ける神様に自己のすべてを委ねて、次の世への希望の中に生きているのですから、得られる満足感は最高でしょう。

神様はわたしたちに耐えられないような苦しみには合わせられないし、たとえそのような状況になっても必ず逃れの道も備えてくださっている。このこと信じて進むなら、少々のことがあってもあたふたせずに、心が平安でいられる。

そして、どのような結果に終わっても、感謝して受け入れることができる。渦中にある時は、不安でたまらないが信仰を持つことによって希望が与えられていることを感謝したいと思います。

今日の聖句は、新約聖書コリント信徒への第一の手紙第2章9節「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」。

旧約聖書箴言第19章21節「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。

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