キリスト教の不思議な生い立ち
皆さんも、ご存知だと思いますが、キリスト教の聖典である新約聖書は、イエスが書いたものではありません。イエスは現存中自ら書いたものを何も残されませんでした。
新約聖書に書いてあることは、イエスのことですが、書いたのは、イエスから直接教えを受けた者とかイエスの教えを信じる者、いわゆる弟子達で、イエスが死んでから20年以上も経てから書かれたものの寄せ集めです。
歴史的事実として確認されていることは、イエスという男が約2000年前にイスラエルのナザレの地で大工の父親の手伝いをしながら生きていたこと。
その男はローマの法律で裁かれ、十字架に架けられて死亡したことです。
イエスについて語ろうとするとき、信頼できる史料が皆無に等しいと言われています。信頼できるにたる史料はただ一つだけです。
それは二世紀にタキトゥスが書き残した年代記に、「その名(キリスト教という名)に由来するクレトゥスは、ティベリウス帝のとき、ポンティウス=ピラトゥスによって処刑された」と記されているだけです。クレトゥスは、キリストのことです。
聖書以外に、イエスのことを書いてある書物で信じるに値する書物はありません。だからその人物像は聖書を読むしかありません。よって、新約聖書に書かれていることの真偽を客観的に立証する方法はありません。
このように、新約聖書の内容を信じるに値する証拠は何もありません。新約聖書も証拠ですけれど、イエスの教えを信奉する当事者が書いたものですから客観性がなく証拠にはなりません。
新約聖書は原始教会の信仰告白の記録で、読む者に信仰、つまり、約2000年前にこの世に生きていたイエスという人物が述べたこと、行ったことを信じるように決断を迫っているものであって、イエスの外的生活についても、内面生活についても正確な事を伝えているわけではありません。
とっつきにくく、見た感じ何の面白みもない書物に見えます。本当は面白くて不思議がいっぱいでこれほど人を引き付ける書物はないのですが。
また、この新約聖書ほど、その真偽を疑われて研究対象となった書物もありません。この約2000年間多くの人に疑われて叩かれてきましたが、多くの新興宗教が消え去る中で、生き残ってきました。
いや、生き残るどころか、未だに聖書を読んでイエスを信じるものが次から次へと起こされている不思議な書物です。
人類の歴史を、紀元前と紀元後に二分し、今も聖書を読み信じる者の人生を二分し、大きな影響を及ぼし続けている書物です。
聖書は、これからも、人類社会が続く限り人類の歴史に影響を与え続けるのでしょう。これほど、人類の歴史に、人間個人に大きな影響を与えた書物はないでしょう。
そのような書物はこれからも出てこないと思います。同じものは二つと造れない。それこそ唯一無二の存在です。
キリスト教は言葉の宗教といいますが、聖書の中身は、神を信じる者が信仰の目を持って見たイスラエルの歴史と、イエスのことが記載されています。
だから、歴史から生まれた宗教ともいえます。その主張は神を信じる者が肯定する歴史的な事実に基づいて成り立っています。
したがって、その歴史的な事実が覆されてしまえば、キリスト教は成り立たないことになります。
内村鑑三はこういっています。「キリスト教が無かったならば、今日の立憲体制も、哲学も、文学も、芸術も、教育も無かったのである。
宗教はこの世のことではないが、この世に関係の無いことではない。この世に嫌われながら、深く強くこの世を感化するものである。世に実は宗教ほど確実なるものはないのである」。
新約聖書はいろんな教えの寄せ集めとか、作文だとか、イエスは創作上の人物だとか、信仰上の観念的な存在だとかいう意見もありますが、そのようなものでは、この2000年間のキリスト教の歴史は説明できません。
キリスト教は、諸宗教をなぎ倒してひとり世界宗教として発展していきました。そのエネルギーは、強烈な創始者イエスの存在抜きには考えられません。新約聖書を読んで、迫害に耐え、イエスの教えに命をかけて信じぬいた無数の民がいたことも事実です。
キリスト教を端的に説明した文書がありましたので二つ紹介します。正に的確です。
「キリスト教のキリスト教たるゆえんは、イエスの史実そのものに客観的にそなわっているのではなく、イエスをキリストと信じ、それを告白することにある。
イエスとの出会い、そこでなされる決断において信じられるキリストは、もはや単なる史実を越えたもので、そのつど、ここと今における決断の瞬間に現実となる歴史的事実である」と。
もう一つは、「イエスはわれわれの方に、見知らぬ人、名もなきものとして歩み寄ってくる。彼は命じ、彼は従う者に自己を啓示する。こうした人々は、口には言い表し難い秘密として、彼が誰であるかを経験するのである」。
難しい表現ですが、簡単にいえば聖書もキリスト教もイエスを信じた人の信仰告白(聖書を読んで信じるところを告白すること)が結実したものだということだと思います。
ではなぜ聖書を読んだ者に、イエスの言葉を信じる信仰を与え、その信仰を告白させる力はどこからでてくるのでしょうか。
そこに何か目に見えない大きな力が働き、信仰者はその目に見えない力の働きを現実に体験しているからだと思えませんか。
わたしはその力は神の霊、聖霊の働きだと信じているのです。イエスは十字架に架かられる前に、わたしが死ねば、自分に代わって助け手としてこの世に聖霊を送ると予告されているのです。その聖霊です。
イエスを信じた者は少なからずその聖霊の存在を、働きを体験し、自覚しています。だから事実として信仰を告白できるのです。
聖書を読むと、書かれた言葉はやさしいのですが、喩えで語られているところが多いので解釈に多様性があります。
ですから読んだ者が書いてあることを信じるかどうかは別にして、一応理解できます。全く分からなければ信じるどころではありません。
仏教の経典は、誰もが分かる言葉で書かれていないので、お坊さんが解釈してくれなければ理解できません。大きな違いです。
書物を読んで理解するのと、信じるのとは別です。信じるということはある程度理解できて本当のことだと思えたら信じることができる。
それは、先に書きました神の霊、聖霊が聖書の言葉に働かれて、書いてあることを肯定して読む者に信仰を与えるのです。そう「人々は、口には言い表し難い秘密として、彼が誰であるかを経験する」のです。
聖書を読む者はそういう風にして、復活のイエスと出会います。その結果、世界の人口の三分の一以上はその教えを信じ受け入れたクリスチャンなのです。不思議です。
この人類の歴史なくしてキリスト教はありません。このキリスト教の歴史が無くて何が聖書かと言いたい。
聖書は、世界のベストセラーであると同時に、まさに聖書は生きています。こんな書物は他にありません。聖書は、世界のベストセラーですが、全て購入した人が読んでいるかといえばそれは分からない。
読むチャンスは誰にでもあるが、読むかどうかは別、いや読もうとして購入したが面白くなかった、読んでも訳がわからなかった人もきっと多いのでしょう。でも幼子のような心を持つ方は、神の霊、聖霊に導かれきっと読まれるでしょう。
最後に、やはり内村鑑三の言葉を載せておきます。「キリスト教は歴史的宗教である。すなわち、かつてあったことを信ずる宗教である。
人が考え出したことを信じる宗教ではない。その点において、仏教とキリスト教との間に根本的相違がある。」
仏教は釈迦牟仏1人の思想教訓に始まっているが、キリスト教はアブラハム以来キリストまで、少なくとも4000年間の生ける歴史に根ざしている。
生ける神は、言葉をもってするよりも事実を持って教えたもう。理想を説かずして実例を示したもう。・・かくて神は地理と歴史を持って聖書を書きたもうたのである。それゆえに聖書は貴く、世界無二の書である。」
わたしも思います。
最後の最後に、キリスト教は、なぜこんなに大きくなったのかを考えたら、「キリスト教は、内外ともに高名であるが、その実よく知られていない。
とすれば、キリスト教を知られざる高名者に仕立てているのは、他ならぬ『知られざる人キリスト』自身ではなかろうか。」無名 ではなかとうか。
キリスト教は、目に見えない聖霊とか、死人の復活を信じるのですね、そんなのナンセンスと言われる方がおられますが、はっきり言えることは、新約聖書もキリスト教もイエスの復活と聖霊降臨がなければ生まれなかったということです。これが現実です。
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