命は人との関りの中に
障害児を長い間診続けてこられた精神科医が、「命というものは、周りの人々との繋がりの中に存在するものである」、といわれています。
そして、「周囲の人がたとえ一人であっても、その障害児との繋がりを大事にしょうとする限りは、まさに命である。また、少なくとも、ある人が生きていることによって、他の人に何らかの影響を及ぼすようであれば、それはもう人格ではないか」と言われていました。
人間関係とは、他者とのかかわりを言いますが、その他者とのかかわりの中に隣人愛が働きますと、その人の存在に意義があるということでしょう。どのような人もそのような状態にある限り人格を持っているといえると思います。
イエスは生まれつき目の見えない障害者のその障害は、神の業が現れるため、といわれています。ということは、その人が障害を持つことになったのにも意味目的があるということになります。
障害者に限らず、社会から疎外された人々、不治の病を持つ人々、経済的な理由から家庭崩壊に陥った人々も同様だと思います。
世界を見れば、戦争と惨事がいつもどこかで起きていますが、そのために発生する、貧困、難民、はては死ぬために生まれてきたような人々もおられます。人はいろいろ十字架を背負ってこの世を生きています。
「隣の人を自分のように愛しなさい」というイエスの愛の戒めがあります。この戒めを、最も重要な戒めとして置かれたのも、この世に、人一倍十字架を背負っている人をおかれたのも、われわれ健康で恵まれた者にその戒めの実践を試されているのであろうと思います。
この御言葉は、真の愛は、一人ひとりの人格の関わりから生まれ、愛するとは、人間関係を大切にする事だといわれているように思います。そこに命があると思います。
なぜなら、イエスの言われる隣人を愛する愛は人間関係の秩序を形成するのに必要なものであり、命は隣人愛の中にあって初めて輝くものだと思うからです。キリストの神様は愛の神様です。
わたしも含めて、殆どの人は、自分のことで精一杯。他人のことをかまっておれないのが実情です。それでも世界を見れば自分を捨てて他人のために尽くしておられる方がたくさんおられます。
その方たちは神様に特別に選ばれた人でしょう。少しでもその人たちに近付きたいと思うのですが、まだまだ自我が強いわたしは、さてとなると躊躇してしまいます。これが現実です。わたしも弱い人間の一人です。
隣人を自分のように愛する愛は人間の自己中心という本性に反することです。でもそれが実践できたらそこに喜びがあります。
それは神様の御心であり、喜ばれることだからだと思います。隣人ないが実践できないのは、人間が罪を持つためですから、人間の努力だけではできないことだと思います。
2000年前当時のユダヤ教では、病気や身体的障害は罪の結果であると考えられていました。今の日本でもそのように考える人が多くおられるかと思います。ヨハネによる福音書第9章2節で、イエスが生まれつきの盲人をいやされた箇所があります。
ユダヤ人が、イエスに尋ねました。盲人になった原因を、「誰が罪を犯したからですか」、と、その問いに対してイエスは、「神の業が現れるため」、と答えられています。
神が支配されるこの世では、悪しきことを含め、いっさいの出来事は、神の業と栄光が現れるためだと考えられます。
しかし、よく考えると愛であり善である神は、病を与えることなどされないから、盲目は人間が肉体を持つゆえの弱さからきたということでしょうか。
もちろん、人間の罪から来る病もあると思います。どちらにしても、病は神の癒しの業を行うために存在しているといえますが、わたしは神様がそれらを許しておられるのは、人間に愛を、弱さを、無知を教え、人間の傲慢を打ち砕くためだと思います。
肉体の弱さ、罪、どちらを原因としてもそのことを神様が許されているのだから、神の御業といえます。
罪からきた病を考えると、罪には原罪・思いの罪・行いの罪がありますが、わたくしは罪の源は人間が神から離反したことにより神様の守りがなくなったところに、サタン(悪魔)が人間の潜在意識に影響を及ぼすことにより生ずるものと理解しています。
先の聖句で、問いかけたユダヤ人は、「誰が罪を犯した・・」と言っておりますから、行いの罪のことを言っていると思います。
行いの結果なら、生まれつきの盲人だから、原因は生まれる前の行いになり、もし罪が病の原因だとすると、その罪はその人が生まれる前に犯した罪になりますから輪廻転生があることになります。
輪廻転生は大変な問題ですから、ここでは深くは考えないでおきますが、ただ言えることは、聖書を読むと、イエスは輪廻転生を否定も肯定もされていないと思います。
そして、イエスを信じて罪が贖われたクリスチャンはこの世に再び転生することはないということは明確です。
悪魔が病を与えるにしても、肉体がもつ弱さが原因としても、神様がこの世界を支配され、神様はそれを許されていることになりますから、病は神様の御業です。その病は神様の栄光を現す場となります。
生まれつきの盲目は天罰でなく神様の恩恵を表すための機会だという、イエスのこの言葉によって災禍は天罰でも神の怒りの表現でもなく、その反対で災禍は神の栄光の現れるための場であるいえます。
神の栄光があらわれる場というのは、人が病とか災禍を隣人愛の実践の場に用いるならば、それは人類に対する神の恩恵ということになります。
これはイエスが特別に人に伝えられた大福音である、ということになる。
隣人愛が実践されるところに、神の栄光があり、神の栄光があるところに命が輝くからです。そこに神の力が最大限に発揮されると思いうのです。
最後に、この世のあらゆる災禍が神の御業ということは、神の創造の御業ということになります。苦難は、災禍は、新しい人間が誕生するための、新しい天地を作るための生みの苦しみと言えるのではないでしょうか。
もちろん、新しい人間とは、神に祝福され、神とともに生きる人間をいいます。
この新しい人間というのは、この宇宙が消滅した後、新しい天地が現れると黙示録に書いてありますから、そこに住む人々ではないかと思います。
病とか災禍は無償の愛が働く場であり、その中で人間は、自己の弱さを、無力さを知り神を知ることになる。つまり、神の創造の御業が働く場がそこにあることになります。
こうしてこの世のすべて、良いことも悪いこともすべての出来事は、神の創造の御業のために活用されるのです。
神の御心とよく言いますが、その創造の御業に沿った行いが御心といえるのではないでしょうか。
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