自己義認
人間は誰でも不利な立場になると、無意識に自己を防衛します。むきになって防衛します。自己防衛は、無意識にする場合がほとんどだと思います。人が生まれながら持っている自我がなせることといえます。
自分の意見が正しいとか間違っているとかを理性で判断する前に、わたしたちは自分の立場がおかしくなると、ほとんど反射的に、自己を守る言動でもって反応します。
これなど無意識のうちにそのような思いが起こるので、それは、本性が罪である人間の自己義認という性だと思います。
わたしなど現役時代は、自分が自信をもっている仕事で、他人が違った意見を差し入れると、プライトがむくむくと頭をもたげて、必死で防戦したものです。やりこめて悦に入っていることがよくありました。困った性分です。
年をとっても人間が出来ていないというか、もう少し気持ちを大きく持てばいいのですが、未だに同じようなことを妻との間で懲りずに繰り返しています。
自分が自信を持っている仕事といっても、世間は広いもの、上には上があることも知らず、所詮自己満足に過ぎないのです。これを井の中の蛙というのですね。
負けず嫌いの気持ちをうまく利用して、問題点を先に先に察知して、事前に問題点に対処する方法を学びましたが、それもしょせん人に負けたくないからです。
人との会話で、負けそうになれば、正論を述べる人がいます。そのようなとき、場合によっては論争になることがあります。
正論を言うのは楽なのですが、現実には、正論がどのような場合においても正しい答えとは限らないので、正論を言う場合は、少し引いてものを言えば論争にならずにすむのにと思うことがよくあります。
どちらにしても、あまり自己防衛というかプライドを剥き出しにすると見苦しいものです。これらは、だれでも人間が持っている、自己義認という性だとおもいます。自分が正しいことを認めてほしいという自己主張。
負けるのが嫌いなのが人間の本性です。誰でも何らかの方法で自己主張して生きているのが人間ですから、やむを得ないところがあります。
どちらにしても、自分の事情はどうあれ、悪いことは悪い、正しいことは正しいと判断できたら一番よいのですがね。
自己義認は人間の弱点の一つで、サタンなどが人間に付け込むための隙を与えることになります。正しいのは、常に自分で正しくないのはいつも他人だとする、おごりだからです。おごりは人間の罪です。
おごりとか自己義認を防ぐには、己を知ることが必要なのでしょう。
己を知るとは、自分の弱さを、罪深さを知ること、だから、いつもどんな場合にも自ら謙虚になり、自らの弱さ,愚かさを深く認識していることが必要だということでしょう。
これらは人間の本性である自己義認を表に出した生き方と正反対の生き方です。
このように考えると、わたしたちの本当の敵は、自分自身の内にあるといえるのではないでしょうか。
自己義認は、言い換えれば自己中心であります。自己中心的考えでものをいうと、思わず言った言葉で相手が大きく傷つくことがあります。相手のことを考えていないので当たり前といえば当たり前です。
自分の意見が本当に正しいことであっても、場合によっては、批判ともとられることもあります。正論は往々にして冷たいものです。
なぜなら正論を述べる場合は、だれも反論できないのがわかっているから、相手の立場を考えずに述べることが多いからだと思います。相手は逃げ道がなくなるので、立つ瀬が無くなり反論も出来ません。こうなると、恨みを買うこともあると思います。
正論のみで人間社会が成り立っているわけではありませんからね。人の顔が一人ひとり違うように、多様な意見の中に成り立っているのが人間社会だと思います。
だから違う立場の人への、配慮とか思いやりが必要になるのですが、そういうことは、本性が罪である人間は、意識して努力しなければできないことなのだと思います。
正しいことは、控えめに言うべきだと思います。それが隣人に対する思いやりといいますか愛だと思います。
人間は、なかなか謝ることをしないし、人を認めることをしない、非常に頑固な心をもっています。
自分が間違っていると分かっているとき、反省しているのに批判されると、理屈をこねて間違いを正当化したくなる。これは本性が罪である我々人間の姿だと思います。
傲慢と正反対の謙遜、へりくだった心は、神が喜ばれることであることをよくわきまえて日常の会話に気をつけたいと思います。常に気をつけていなければ、知らず知らずのうちにわたしの心の奥底でうごめく自我が頭をもたげてきます。
何事もこの世のことはすべて相対的で、絶対的なことはないのだということをよくわきまえたいと思います。聖書には、絶対的なことは神の言葉だけだと書いてあります。
次の聖句を実践できれば、人間関係は、この社会はずいぶんと変わるでしょう。住みやすくなるでしょう。
今日の聖句は、新約聖書フィリピ人への手紙第2章3節から4節「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」。
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