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2008年3月20日 (木)

思い悩むな

毎日の生活で、最大の心配事は「どうして生活していこうか」という問題に帰着します。これには仕事のこと、子供のこと、病気のこと、その他本当にたくさんありますが、あとからよく考えると、取り越し苦労といえるものが多いと思います。

人生は、ある程度準備ができてもそのときになってみなければどうなるか分からないことがほとんどです。
それでも人間は、どうしょうもないのに先のことを思い悩みます。取り越し苦労は無益だと分かってはいるけどやめられない、ですね。

イエスは、あなたたちの毎日の生活は、いつも配慮している、と言っておられます。自分の命を延ばしたいために、食べるものをいろいろ考えているが、それは全て無益なことと言っておられます。   


イエスは生活のことを「自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の身体のことで何を着ようかと思い悩むな」(新約聖書マタイによる福音書6章25節)。

という具体的な問いの形で語られました。現代では、これらの大概のことはお金があれば、手に入りますから、この問いは「どうしてお金を得ようか」という問題に帰着すると思います。

できるだけ楽に、生涯安定して、できるだけ高額の収入を得るためにはどうすればよいか。虫の良い話しですが、これが現代人の最大の関心事だと思います。 

そのために仕事の上での、お金を稼ぐ上での悩み事が多く、現代生活は「思い悩む」ことが満ちています。

その思い悩む原因は、人間の欲、いわゆる自我から出てきていると思います。自我は人間の本性ですから、自我を捨てることなど人間にできません。ではどうすればいいのですか、と言いたくなります。

そのように思い悩まないではおれないわたしたちに、イエスは、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。

だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(新約聖書マタイによる福音書6章26節)、と更に畳み掛けられます。
 
この御言葉をよく読むと、人間は何もあくせく働く必要はない、天の父が養ってくださるとも読めます。

そうであれば、この言葉は、わたしたち人間に「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」鳥のような生活、自然にあるものを採集して暮らす原始の生活に戻れと言っておられるのでしょうか、いやいやそんな現実離れしたことをイエスが言われるはずがない。

人間は種を蒔き、刈り入れ、倉に納める工夫を重ね、またそれを共同で行う努力を積んで、文明を形成してきました。イエスはそれを否定しておられるのではないと思います。

きっと、イエスが言わんとすることは、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」鳥を養ってくださっている「天の父」(創造神)の配慮を自覚しなさいということなのだと思います。

「あなたがたは鳥よりも価値あるものなのだから、父(創造神)が配慮してくださらないことがあろうか。生活のことは、自分で思い悩むのではなく、父の配慮に委ねなさい」と言っておられるのではないでしょうか。

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。(新約聖書マタイによる福音書6章27節)。

この御言葉をよむと、その通りです、と答えるしかない。あなたたちは、寿命を延ばせないけれど、わたしはあなたたちの寿命を延ばせるのですよ、だからあなたたちはわたしに生かされているのですよ、生きているのではないのですよ、生かされているものに何ができるのですか、思い上がるな、といっておられるように思います。

この場合、思い悩むことは一種の高慢であることを気づかせます。

それは、思い悩むことは、私たちの力で事態を変えることができることを前提にしているからです。定められた寿命を延ばすことができると考えることは、人間の分を超えた傲慢です。

できもしないことを、ああしようか、こうしようかと思い悩み、先走って心配するのは愚かなことだと言われています。

どちらにしても、その悩みの原因が、死んでしまえば、あの世に持っていけないような、財産とか、地位、名誉など地上的価値の上に、自分の城を築こうとすることからくるのならば、その生涯は酔生夢死といえます。そのようなことで苦労するのは御免こうむりたい。

神が私たちのことを心配してくださっているから、思い煩いを神様にきっぱりと預けなさい。思い煩っても無益である。どうにもならないことを悩むのはストレスです。そのため驚くべきエネルギーを使います。

そうであれば、このエネルギーを神様に委ねるために使うほうがよほど有効的だと思いませんか。

神様が私たちの必要を知っておられるから(新約聖書マタイによる福音書第6章32節)「あなたがたの天の父は、これらのものがあなたかたに必要なことをご存知である」、必ず私たちに必要なときに必要なものを与えてくださる。

お願いすれば、それが御心ならば、最善の時に必ず必要なものは与えてくださる。すぐには叶えられなくても、待つことは訓練で、試練です。

人間として、なすべきことはして(何もしないのではない)、出来ないことは神に委ねなさい。

つまり、やるべきことはやって天命を待つ、ですね。それにもかかわらず私たちが心配しているなら、世の人たちのような生き方、

すなわち、地位とか名誉とかお金など自分のエゴを求める生き方をしているのではないのですか、と問われています。

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