決算のとき
人間は必ず死なねばならない。生まれたならば死は必ず訪れる。こんなことは、誰でも分かっているが、生きているときは誰も自分がいつ死ぬなんて意識しないで生きている。
だから人間は生きていける。いつ死ぬかがわかっていたら、心はすさんでとても生きてはいけない。夢も希望もあったものじゃない。
日常は、自分を創造した神がいるなんて考えもしないで生きている。自分を創造した神はいるかも知れないし、いないかも知れない。それは分からないから、証明できないから宗教(信仰)の問題になるのでしょう。
もし、人間を創造した神がいるとしたら、人間がテレビを造るときのようにその目的をもって創造すると思います。
人間を造ったのは、神のただのたわむれで、目的のない遊びということは、人間が存在できるように最善のバランスで創られている宇宙のこと、また人間の複雑で、巧妙で精緻で正確に造られた肉体とかこころ、
またこの宇宙に、自然界に、人の内に埋め込まれた各種法則があること、それ以上に人間には永遠を思う(彼岸を思う)心がなぜ与えられているかを考えれば、
やはり創造主がおられ、目的をもって創造されたと思います。共通するのは義と秩序、我々の創造主は義と秩序を重んじられる神だと思います。
通常、負債は決算を前提としています。決算の時、負債の責任が問われます。創造主がおられるとしたら、きっと、創造した目的があるはずです。そうであるなら、目的に照らして評価する決算もあるということになります。
人間は自分で存在しているのではない。わたしを存在させている方がおられるのである。そうであれば、人間は被造物として、
その方から「どのように生きたか」と問われるならば、自分の生きざまそのもので答えなければならない立場にあります。この「答えなければならない立場」のことを通常責任と言います。
人間は創造主である神に対して責任を負う存在であることを、イエスは「決算」を譬えとして語っておられます。主人の財産の運営を委ねられた者は「会計報告(決算書)」を主人に提出しなければなりません。
無駄使いをしている管理人に向かって主人は、「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。(新約聖書ルカによる福音書16章2項)といいました。
財産を僕たちに委ねて旅に出た主人は、帰ってきて僕たちと決算をするのです。イエスはこのたとえで、決算のために再びこの世に来ると言っておられます。
その日、各人にイエスが問われるのは、「おまえはわたしが与えた能力と様々な賜物を、どれだけ忠実に神の栄光のために使ったのか」ということであります。
と同時に、そのことの行為だけでなく無益な言葉や心の中の思いまで「決算書を提出する」ことになります。そのことは、次の聖句に書かれています。
新約聖書マタイによる福音書12章36節「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」。
聖書には、イエスは再び来られるとき、決算の時は迫っていると書いてあります。
迫っているというのは、自分がいつ死ぬかもわからないし、イエスが来られるのは明日かもしれない。
清算できるのは、生きているときだけで死ねばできないとされているので、生涯の決算をする日が迫っていると表現されたのでしょう。
まだもう少し間があるだろうから、そのうち善行を積んで決算書を出す時までに備えようと考えても、突如として迎えが来るかもしれません。
聖書には、稲妻が突然暗闇を照らし出すように、裁きの日がくると書いてあります。このように、その日は思いもかけない時に突如やって来ることになっています。
さて、先に書いた負債のことですが、「わたしは何も罪を犯していないし、どちらかといえば人のためにいろいろとやってきたから、神様に対して負債を負った覚えがない」といわれる方もおられると思います。
確かに未信者の方は行いによって裁く(ヨハネによる黙示録第20章12節)となっていますので、そのような方がおられたら、行いの罪は無罪放免かもしれません。(参考聖書箇所ローマの信徒への手紙第2章14節以降)
先の聖句のたとえの「負債」とは何を意味するのでしょうか。それは神の前の責任といえます。生まれながらの人間は、自分の命の根源である聖書の神と何の関わりももたないで、自分だけで存在していると思っています。
神に創造されて、支えられて存在している者が、神にかかわりなく、自分だけで存在して生きているという意識を持つことを自我といいます。
自分を造った神を認めない、知らない、認めても不要として生きている。これをキリスト教では罪(原罪)といいます。
人間は本性的にアダムの時代からこのような在り方、神を不要とする生き方をしており、これを創造主に対する人間の傲慢といい、神がもっとも忌み嫌われる罪なのです。
これは創造主である神から見れば裏切りであり背信であります。このような、被造物の裏切りを聖書では負債といいます。だから、立派な行いをしたので無罪というのは、ぜんぜん次元が違うことになります。
自我というものは、神への裏切り行為ですからそれをそのままにしておいて、いくら善行を積んでも完全に埋め合わせなどできるわけがありません。裁きはその上での裁きなのです。
自我は責任の果たしようがない罪なのです。だからやはりどんなに善行を積んでも根本の罪は残るのです。
その根本の罪をも免れる方法があります。それがイエスの言葉を信じることなのです。イエスを信じることは、その自我である罪をイエスが十字架で贖ってくださったということを信じるということなのです。
それも、それまでの罪の責任を問わないで恩恵をもって無条件で受け入れてくださるので、イエスを信じた者は裁きを免れるのです。これを義とされるといいます。罪がないのではなく罪がないとみなされるのです。
といっても、もう裁かれないから何をしてもよいことにはなりません。本当にイエスを信じたら、その人は神の霊、聖霊に導かれているはずだから、つまらない無益な言葉など言わないはずだと言っておられます。
イエスを信じたと言いながら、無益な言葉とか自我をむき出しにした行いをしていたら、裁きの時に、本当はわたしのことなど信じていなかったのだろう、お前など知らない、と言われそうです。
いままでの人生を考えれば、わたしは50歳まで神を知らずにきましたから、自分の決算書が厖大な赤字であることを知っています。
その負債は、おそらく死ぬまでに払いきれないでしょうから、わたしには、創造主である神の負債の免除の恩恵を受けることが必要なのです。
最後に、ちょっと話が変わりますが、キリスト教と他の宗教について、ある本に次のようなことが書いてありました。
「審判の日つまり決算のとき、キリスト教以外の宗教は、キリスト教が既に調べを受けた顕微鏡下で検査されるでしょう。
歴史的起源の事実と、説き教えているメッセージの価値に関して、キリスト教が受けたのと同じ検査を、すべての他の宗教は受ける必要があるのです。
キリスト教は検査づけにされながらも、もとの姿のまま浮かび上がってきました。信用に値しないものは何もありませんでした。
キリスト教の起源についての科学的、学問的調査は、その起源の土台を崩すどころか、逆にそれを強化することになりました。」
キリスト教は、人の目で徹底的に裁かれました。他の宗教の人々も今は裁かれなくても決算のときには、その信じるところによる行いにおいて裁かれるでしょう。
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