神の畑
人生に問題を抱えて生きるのは、それもそれを持続して生きるのは、容易なことではありません。強い精神力が必要だと思います。しかし、その問題も強烈なストレスを生むようなことでは大変ですが、少しの緊張を必要とする
程度のことなら、日々の生活に、心に張りができて生甲斐を与える一助ともなります。
そのような緊張感があるほうが人生にはプラスに働くように思います。
このようなことを書くと、真面目だな、人生なんか真面に生きたらやってられないぜ、といわれそうです。でもわたしはなぜか人生を真面目に生きるのが好きです。
どのような大きな人生の問題も解決する方法があります。それは自分を創造した神の存在を認めて、自分の人生を委ねる事だと思います、と大きく言いましたが、この世に生きている限り、そのような信仰を持ち続けるのは現実には困難かもしれません。
わたしなど俗人にはなかなかできることではありません。でもそのような人生を歩んだ、一部の選ばれた先人は、そのような歩き方をすれば、逆に人生が楽になったといわれています。
人生の最終段階で、わが人生に無駄がなかったと言えるようになるためには、やはり自分を創造した神の存在を認める必要があるかと思います。
その神が、わが人生の、数限りない悔いを残す無駄の全てを取りあげて用いてくださる神であるならば、また人生の全てをその神の知恵と恵みに委ねることができるならば、きっと、わが人生に無駄はなかったといえるのでしょう。
この世の価値、つまり、名誉とか、財産とか、権力とか、これらは現世を生きていく上にはある程度必要なのでしょうが、そればかりに気を取られていたら、
際限がなくなり心の空虚は埋められず、人生の最後に、生きてきた人生を振り返ったとき、一生懸命になって得たものをすべて捨てていく自分をみて、空しくなるのではないでしょうか。
次の世に持って行けないものは、次の世に希望をつなげられないものは、所詮、人の心を埋められないと思います。
造られたものは、造られた目的に沿って生きることがもっとも無理なく充実した人生を送れるのではないでしょうか。
人間は、汚れものを洗うために洗濯機を作りました。汚れものを洗うこと以外に利用されることほど洗濯機にとって不幸はありません。それは、最善に利用されているとはいえません。
もちろん、わたしはその創造主である神は、イエス・キリストと言いたいのですが、なぜこのようなことになるかといいますと、
今までに、人間が存在する意味とか人間を含むこの宇宙の存在の意味を的確に答えた人、そして、人類の歴史を二分するほど大きく変えた人は、歴史上にいたでしょうか。
唯一そのことにつき命をかけて応えられた人物が、約2000年前にこの世にこられたイエス・キリストなのです。
創造主の存在を認めないなら、そのような問題は起こらないのですが、創造主の存在を認めたら、何らかの形で被造物の歴史に関与されていると見るのが自然だと思うのです。
わたしにとって、それはイエス・キリストなのです。
なぜなら、イエス・キリストが現実に生きて働いておられることは、この人類の約2000年の歴史が証明しているからです。いや、旧約聖書の時代を含めたら、約3000年以上にもなります。
聖書によれば、わたしの人生を完成するのは、わたしではなく神であります。わたしを造った神が、人類の歴史だけでなくわたしの生涯の計画をお持ちであるという。
そして、その計画(御心)を成就しょうとされていますが、その御心を受け取り、従うかどうかはわたし自身に委ねられています。
創造主である神の存在を認めない人に、御心を示して計画を実行しょうとしても無駄ですからこれは当たり前です。だから、イエスはわたしたちにこちらを向きなさいという神の御心を伝えに来られました。
そして、最終的にその御心を、十字架という強烈な方法で示されました。十字架で全人類の罪は購われましたが、その恩恵を受けるかどうかは、人間一人ひとりの自由意志に委ねられました。
わたしにはいろいろやりたいことがあるけれど、でも御心ならば全てを捨てて従います。そのような信仰があれば、わたしの人生は、自分を造った神の御心に添っているのだから決して空しいものではなくなるはずです。
聖書には、人生で経験する全ての不運とか艱難辛苦などに無益なものは何もないと書いてあります。なぜなら、神がわたしの経験したことの全てを最善に用いてくださるからです。
不運とか艱難辛苦は、人間を創造した神が、素材である人間に加える工夫であり、試練であり、練磨だというのです。
そのように悟るとき、その人間は積極的な意欲をもってそれらに耐えることができると思うのです。なぜならそこには希望があるからです。
ローマの信徒への手紙第5章3節から4節「苦難を誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと言うことを。希望はわたしたちを欺くことはありません。」
これはイエスの使徒パウロの言葉です。神から与えられた苦難は、忍耐すれば希望を与えてくださると言うことです。この希望は神から頂いた希望ですから決してわたしたちを裏切ることはありません。
なんの取り柄もないわたしでも、用い方によっては、欠点は長所に、長所が弱点として最善に用いてくださる。こうして、創造主である神は、わたしという作品を完成に向けて、その素材の全てを活用して下さる。
人間の評価は、その人の人生を全体として一つで評価して、最終段階で創造主である神が下すべきものといえると思います。
わたしも、若いときにイエス・キリストを知っていたら、もっとしっかりした人生を歩んでいたかもしれない。
この年になるのに、わたしは、未熟で素材に近いのかもしれない。収穫できる状態でないのは確かだと思います。まだまだ死ねないと思います。
人間の社会は、そのように考えると神の畑と言えると思います。収穫の時に、腐っていてゴミかごに捨てられないようにしたいと思います。
今日の聖句は、新約聖書、第一コリント3章9節「わたしたちは神のために力を合わせて働くものであり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。マタイによる福音書9章38節「収穫の主は神である」。
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いつもおじさんの日記拝読させていただいておりますが読めば読むほど自分の今までの生き方が何であったのか後悔するばかりです。残り僅かな時間生いっぱい悔いの無いよう後ろ指指されないようがんばります。がんばれば苦しいので過ごします
投稿: 池田 | 2008年3月 8日 (土) 16時37分