続、思い悩むな
さて、「思い悩むな」の後半です。前半に続いてイエスは、神の配慮を着飾ることの譬えで語っておられます。ここでも人間のとり越し苦労を誡めておられますが、信仰に未熟なわたしには、現実に問題が目の前にぶら下がると、ああでもないこうでもないと、色々と考えざるを得ません。
万が一に備えて準備もしますが、よく考えると何が起るかわからないのに、万全の準備などできるわけが有りません。
それでも、ない知恵を絞って何とかしょうと努力する。イエスは「その日の苦労は、その日だけで十分である」という御言葉で、この「思い悩むな」を締め括られます。
思い悩むとは、自分の力では、どうにもならない将来起こるであろうことを、あれこれ想像して心配すること。
言い換えれば、心が必要なことに向くのではなく、そうでないことに向くことをいいます。
必要なことに思い悩んでいるならまだしも、あなた方の思い悩みは、何を着ようか、何で着飾ろうか、見掛けばかりの、わたしが与える永遠の命に関係のない無益なことで思い悩んでいる、と神様はいわれます。
「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」(新約聖書マタイによる福音書6章28節から30節)。
空の鳥に続いて野の花が話題になります。イエスは咲いている花を指して、その花が「どのように育つのか、注意して見なさい」と呼びかけられます。
これは、野の花の育ち方をよく観察して自然科学的に描写することを求めておられるのではなく、この言葉は、野の花がこのように育つことの意味、
その裏で働いているもの、すなわち背景をよく考えてみなさい、野の花が育つための命は、自然に湧いてくるものではありませんよ、といわれているように思います。
「働きもせず、紡ぎもしない」のに、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という現実の背後に何を見るのか、それが問われていると思います。
わたしたちは、野に咲き乱れる花を見て、ただ綺麗だなあと感心します。イエスはその現実の背後に、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」という、人の目にもつかないような小さいものに対する神の配慮を見ておられます。
神がこのように小さいものを配慮してくだっているのであれば、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と続きます。それなのに、わたしたちは「何を着ようか」と衣服のことを思い悩み、「何も食べようか」と生活のことを思い悩んでいます。
ちょっとまてよ、このようなことを言われても、先を考えて心配するのは人間の性、どうしょうもない、と言いたいのですが。このようなこと、イエスはとっくにご存知のはずです。ご存知の上で言っておられます。
イエスが伝えようとされていることは、あなたたちが生きていくために配慮されている父(創造神)を信頼しなさいと言っておられるのだと思います。イエスは、太陽や雨、鳥や花など、自然界のどの現象を見ても、その背後に父の恩恵や配慮を見ておられるのです。
そして、わたしたちをこのような父の配慮を信じて、交わりながら生きるように招いておられる。そうすれば明日ことなど、心配しないようになりますよ、と語りかけられるのではないでしょうか。
心配事を神に委ねるのは、神が全てのことを益としてくださるからです。(新約聖書ローマの信徒への手紙第8章28節)。
この世で起こっていることは、私たちにはどうしょうもないこと、だから何も思い煩わないで、全部神に任せなさい。取り返しがつかないことをしたとしても、それはわたしがあなたの利益のために用いてあげる。
益にしてくださるというのは、災い転じて福となる、ということと同じだと思います。神様がその様に計らってくださるということです。
全ての苦しみに、全ての出来事に意味があります、無意味な苦しみや出来事はない。人間の力が及ばないものは、絶対にあると知ることが大切なのでしょう。
神は、それらの問題と一緒にそれらを解決する方法としてイエスを人類に与えておられる。
思い煩う原因は、物事のすべてを自分で解決しょうとしているからです。これは神様を信頼していないから、不信仰であるといわれている。
結論として、だから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」ならば、「これらのものはみな加えて与えられる」(新約聖書マタイによる福音書6章33節)と約束される。
神の国とは、現世を生きている人間にとっては、現実には心の中の天国、すなわち心の平安と喜びだと思います。
神の義とは、誰一人正しい人はいないから神の恵みで正しいとされる必要があるということ。その方法は、イエスの御言葉を信じなさい、ということになる。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(新約聖書マタイによる福音書6章34節)。
もう一度、「思い悩むな」という言葉の締めくくりとしてこの御言葉が語られる。
たしかにこの御言葉は、明日の心配が絶えない現実を生活する者にとって、慰めに満ちた言葉であります。
これを言い換えれば、「明日のことを心配するな。その日に何が起こるか、お前には分からないではないか。
あるいはお前は明日生きていないかもしれない。そうすればお前は自分のいない世界のことを心配していることになる」。なるほどごもっともですね。
最後に、カトリックの「希望への祈り」を記しておきます。
「神よ、私に変えられないことは、そのまま受け入れる平静さと、変えられることは、すぐそれを行う勇気とそして、それを見分けるための知恵をどうぞ与えてください」。
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