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2008年3月 1日 (土)

神のまことを歩む

わたしが聖書に出会ったのは、たしか二十歳くらいの時ですが、本当に読み始めたのは五十過ぎでした。もう人生も後半になって、聖書を読み始めたのです。

それまでは、宗教には全く無縁な、毒にも薬のもならない、どちらかというとわが道を行く、自分の生き方にこだわる自己中のサラリーマンでした。

聖書を読み始めてからもう十年以上になります。聖書を読んでいて、御言葉に聖霊が働かれているという不思議な体験、その体験により、生きとし生けるものの命の一体感と命は輝くものだということを知りました。
そして、キリスト教のことがもっと知りたいという強い思いに惹かれました。


しかし今から考えると、出会ったのが聖書でよかったとつくづく思います。ほかの宗教なら、けっしてこうはなっていないでしょう。

なぜなら、キリスト教は、他力本願なのですから。神様は人間に何も期待されていない。ただ、わたしを愛し、つまりわたしのほうを向きなさいと言っておられるだけなのです。

そうすれば、わたしはあなたを変え、永遠の命を与えると言っておられるのです。

キリスト教は、ほかの宗教のように、欲望を捨てよとは言わないし、修業を積めとも言わないし、人間には何も努力は求めていないのです。

キリスト教では、人間の欲望は人間の原罪であるとして、イエスの十字架で神様の一方的な恵みにより贖われました。

だから、罪を赦されるための人間の修業は求めておられません。良心の呵責にさいなまれたら神様に赦しを請えばよいのです。

もともと罪は、人間の努力ではどうにもならないことだからです。ただ、わたしを愛しなさい、そうすれば他の事はすべてなると言っておられるだけなのです。

イエスは、隣人を愛することどころか敵をも愛せるようになると言っておられるのです。

わたしがキリスト教に惹かれたのは、それらのことと、神様、いわゆる創造主の存在論がしっかりしていて、それが理論的で矛盾がなく何千年という人類の歴史に裏付けられているのです。これはすごいことです。

聖書のことを知りたいと思い、寝ても起きても御言葉のことを考えて、こうして努力していると、信仰とは努力するものだと勘違いしそうです。自分の意志の力でやっているのだと思ってしまいます。

あるキリスト教宗教学者の論文に、このようなことが書いてありました。「わたしが自覚していようが自覚していなかろうがわたしを動かしているのは神様である」と書いてあるのです。神様のまことだと書いてあるのです。


聖書を読んでいて、教会に通っていてわたしはいつも思っていました。自分の信仰のなさを、どうすれば皆のように信仰深くなれるのか、これでもクリスチャンと言えるのだろうか、と。

でも、その言葉を知り、もうわたしは信仰が未熟なことを何も負担に思うことはないのだと思いました。

わたしがここにこうしているのも、こうして聖書を読んでいるのも、こうしてブログ投稿文を書いているのも、すべて神様はご存知で、神様が許されていることですから、それに素直に従っていればよいのです。

努力の足りなさを、信仰の足りなさを恥ずかしく思う必要もない。

頑張らなくても神様の言葉に聞きしたがっていればよいのです。神様がわたしを導かれていると、信じていればよいのです。

神様は、聖書の御言葉を通じて、あるいは潜在意識に、良心に働かれると思いますので、自分の行いが、それらと矛盾しない限り、神様の御心と思います。

そうでしょう、聖書を読むことも、理解することも、それにより信仰をもつこともすべて神様からくるのですから。

神様は働かれなかったら、信仰も持てないのですから、自分の信仰が未熟だとかどうすれば神様を知ることができるのだとかもう考えないようにしました。委ねていればなんとかしてくださる。

わたしが五十過ぎにして聖書に出会ったのも、聖書を読み始めたのも、それがもう十数年続いている。御心でないならばこんなに長く続きません。読もうと思う思いも起こりません。そのように考えればわたしの気持はずっと楽になりました。なにも無理しなくてもいいのだ。

あとは神様が導いてくださる。そして、わたしがやってきたことをすべて益(何事も、この世で起こることに無駄なことはなく、活用して善に変えるとか祝福してくださること。)としてくださる。そういうことを信じる信仰も信仰です。

残された人生を、わたしを求めて歩きなさい、と言われているようです。自然体でいたらいいのですね、何も気負う必要はありません。

いま、わたしの身に起こっていることが、すべて御心ならば何も心配することはない。きっと、神様は悪いようにはなさらない。何も力まなくても、何も頑張らなくてもじっと神様の心を聞きながら黙々とやるべきことをやっていればよい。

神様はわたしを支配されています。それを信じるならば、わたしに起こるすべてのことに、アーメンと言えるはずです。アーメンと唱えるとき、それは「神様、あなたまことに真実な方です。

あなたの言葉はそのまま事実です」と言っていることになります。心の底から、そのように言えるようになれればいいなと思います。

神様の導きにゆだねて、人生を歩くときは、すべてがアーメンといえるようになれるのでしょう。そうしていると、聖霊が働かれて、神を信じるというあり方が、頭の中の問題でなく、命の現実になるということを保証してくださる。

信じる者には、罪の赦しをあたえ、聖霊を与えると約束されています。

イエスはいわれた、「天地は過ぎゆくであろう。しかしわたしの言葉は、過ぎゆくことはない」。天地の存在よりも神の言葉のほうが確かです。

今日の聖句、ヨハネによる福音書第6章29節「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
人間が神に受け入れられ、神からの恵みを受けるために必要なものはただ一つ。信じることだけです。

具体的には、神がご自身を啓示するために、この世に遣わされた方の言葉を信じることだけだということ。

わたしたちは多くのことに心を砕き、ついこの根本原理を忘れがちになります。信じることが神の業。神はそのために、イエスをこの世に送り奇跡を見せ、イエスを十字架に架け、復活させ、聖霊をこの世に遣わされました。

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