自分のため、他人のため
ブログに投稿をはじめて早一年を迎えようとしています。リタイア人生の仕事が増えました。毎日何を書こうか、どのような表現がいいかなとかいろいろ頭の中も忙しくなりました。ボケ防止にはちょうどいいですね。
はじめる前はどうなるか心配でしたが、今のところわたしの人生にプラスに働いています。軌道に乗ってきました。
がんばって投稿を続けたいと思います。ただ、内容が分かりにくいとよく聞きます。力足らずで困っています。
今日も約40分の散歩をしました。このところ感心に毎日続けています。なぜ40分かというと、30分では物足らなくて50分ではチョットしんどいなと思うので、私にとってはその中間で40分がちょうど良い時間なのです。
さて、歩いていてふと思ったのですが、自分は現役時代、自分のスキルの上達ばかりを求めていたように思います。
知っていることを人に与えることはあまりしなかったのではなかろうかと思います。人間には与える人間と、受身の人間があるといいます。
与える人間とは、人のために生きる人。自分が持っている技術や才能とか持ち味を一生懸命他人のために与えながら生きる人。
受身の人間とは、自分のために生きる人。お金、知恵、経験など得たものを自分の為だけに生かす人。
聖書の該当箇所は、第二コリント9章6節から9節「つまり、こうゆうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。です。
普通の人間は、与えるためには集めなくてはダメだし、一生懸命努力して自分のものにすれば、それを他人のために使うのが惜しくなる。出し惜しみをします。
聖書は、もって生まれた能力はもちろん、努力して得たことも神様から頂いたたまもの、恵みですから他人に惜しみなく与えなさい。そうすれば、それ以上の報いがある、といっています。
わたしの現役人生は、まあ、少しは人に与えることもありましたが、しかし、わが身が大事、自分のことばかり考えて、とくに苦労して得た知識は、誰にも与えず自分のためだけに使う、せこい人間そのものでした。
言い方を変えれば、自分に甘えていたのですね。他人に与えるなんて考え方はどこにもなかった方ですね。
人の生き様は、死に様に反映する、といいます。あるホスピスをされている精神科医の先生が言っておられました、「人は病気になって一ヶ月くらいの間にその人の人生が凝縮されるようなかたちで現れる。
また、人は生きてきたように死ぬとも言われる。しっかり生きてきた人は、しっかり亡くなって行くし、人生に甘えて生きてきた人は甘えてなくなって行く。死の不安についても、強い人とそうでない人がいる。
今までの人生に満足している人は、死の不安が少ない。」と言われていました。与える人生をおくった方は、死を受け入れる能力が高いということでしょうか。
しっかり、自立した人生を送ってきた強い人なのでしょう。その方の人生は、与えたら更に得なければいけません、そして与える、それの繰り返しの人生といえるでしょう。それでは強くなるのは当たり前です。
それはまさしく、人のために生きている人生ですが、結果として自分のためとなる人生といえるのでしょう。この世で生きる人間はすべて少なからずお互い与え与えられる関係にあると思いませんか。
人間は、本人が気が付いているかいないかは関係なく、知らず知らずのうちに人に支えられて生きているといえます。わたしが食べている食物も、来ている服もすべてが他人の作ったものです。
この世を生きていく上で人の世話になることは避けられないことだと思います。自分で働いた金で生活しているのだから、誰の世話にもなっていない、という言葉を聞くことがあります。
本当に誰の世話にもなっていないのでしょうか。ちょっと違うのでは、と言いたくなります。
わたしは他人のために大したことはできないかもしれませんが、自分が置かれた立場を考えて、せめて謙虚でありたいと思います。
イエスは「隣人を自分のように愛しなさい。」、といわれています。この聖句は、命令として、新しい生き方としてイエスが戒められた言葉です。
神様が、もっとも喜ばれる生き方とはそういう生き方なのでしょう。人間一人ひとりがそういう心構えで毎日を過ごせばなんと素晴らしい世界になるでしょう。
イエスはさらに「敵を愛しなし」と言われています。そして、他人のために生きる究極の愛の姿がこの聖句です。ヨハネによる福音書第15章13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」といわれました。
イエスはご自分が十字架にかかり見本を示されました。人類という友のために命を捨てられたのです。
これらのことは、本性が罪である人間には、生れながらの生命のままでは難しいものがあります。でもイエスは「神を愛しなさい」そうすれば隣人も、敵をも愛することができるといわれています。
この2000年の人類の歴史を見てみると、神を愛し、敵を愛し、友のために自分の命を捨てたキリスト者がどれほど生まれたことでしょう。おそらくそれらの人は、何か目的があって特別に神様から選ばれた人なのでしょう。
どちらにしても、わたしなどがキリスト者というのは恥ずかしく思います。ただ神様の恩恵にすがるしかありません。
わたしなどは、これからせっせと人のために、与える人生を生きなければ大変です。といっても,たいして人に与えるものなどないのですが。
いやいやこれはもう逃げているのですね。いけない、いけない。このままでは神様の豊かな報いは望めそうにありません。
このままでは、神様に、大きな負債を背負ったまま、素材のままといいますか、未完成のままこの世を終わりそうです。次の世で、大した働きもできないかもしれない。
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