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2008年2月 8日 (金)

「最初の殺人事件」(2)

「最初の殺人事件」(1)に続きまして、本稿では、創世記第4章1節~16節の箇所が、何を伝えようとしているかを考えてみます。他にも解釈はあるでしょうが、わたしが思うところを書いてみます。

神は、カインの心を知りながら、6節で、「どうして怒るのか」と問われました。7節で、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」とも言われました。 

人間は、自分が正しいと思っていることを否定されたら腹が立つ者です。だから、神がカインに問われたということは、カインの答えを待っておられた(カインの自由意志による答えを)と見るべきでしょう。
その答えがここで神が人間に教えようとすることではないでしょうか。


6節の言葉づかいからみると、神は決してカインを憎んではおられない。それにどのささげ物を選ぶかは神の自由なのです。

カインは、納得できるような理由も説明もなく、自分の献げものが、選ばれなかったのを、いわゆる神のえこひいきと考えたのではなかろうか。

5節で、「カインは激しく怒って顔を伏せた。」とあります。怒って顔を伏せたというのは、神を拒絶したということです。それが8節のアベルの殺人につながる。

カインはアベルに嫉妬を燃やします。神と断絶したカインの嫉妬はますます燃え上がります。この世の支配者サタンの影響を感じます。

カインには、自分のささげ物が選ばれなかったことへの思い当たる節は何もないのです。

神は何も注文されなかったし、自分は精一杯しているつもりなのに、何故か神は自分のささげ物を受け入れて下さらない。彼はそういう苦しみにつき落とされました。

このよう経験は、現在においても日常茶飯事に起こっています。

神に愛されていないという絶望感と、弟アベルへの嫉妬が殺人に向かわせたのだと思います。これは正しくカインの自惚れです。

選ぶのは神なのに、カインの自惚れがそうさてたのでしょう。その心を神は見られたのだと思います。

カインの答えは、6節の神の拒否と、8節の殺人と、9節の「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」といういやみな言葉です。つまり神からの強い離反の態度です。

7節の、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」という言葉がありますが、ここは、神に背を向けたカインの罪、その人間の罪を狙っているサタン(悪魔)のことを言っていると思います。

サタンが最も働きやすいのは、神を見上げることをやめ、苦しみや悲しみ、怒りの中で心が堂々回りをしている状態の時だからです。その根は、傲慢にあります。

7節の終わりに、「お前はそれを支配せねばならない」とあります。

ここの「それを」は何をさしているのでしょうか、「罪は戸口で・・」に続きますので、罪を支配して、それを犯さないようにせよ、と神が言っておられるのでしょうか。

もう一つの解釈として、結果として同じことになるのですが、ここで神はカインに、「お前は弟アベルを支配せねばならない」と言っておられるのだという読み方です。

その場合の「支配する」は、兄として弟を正しく支配する、つまり、弟を愛しなさいといわれている。次に起こる殺人を防ごうとされたということです。

ところがカインは殺人という方法で弟を支配しました。

その後、神が彼に、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問われたのに対して、9節の後半で、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と誠に人間らしい答えで、弟への愛を拒否しています。

神から顔を背けた人間は、人間同士の正しい関係をも失い、歪んだ仕方で人を支配する者となってしまうということでしょうか。

神はここでカインの生き方を問うておられると思うのです。新約聖書ヨハネの手紙第一第3章12節で「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。

なぜ殺したのか。自分の行いが悪く兄弟の行いが正しかったからです。」と書いてありますので、献げ物一つの問題でなく、やはり人生の生き方、在り方の問題でしょう。

人生には、またこの世界には、不条理・不公平が満ちています。こういう原因によってこういう結果になった、という因果関係が説明できないことがたくさんあります。

どうして、このような苦しみ、悲しみが自分に襲いかかるのか、自分がいったい何をしたと言うのか、と問いたくなる現実があるのです。

そして嫉妬で満ちています。他の人を見るならば、自分よりも特別に立派でも、正しくもない、同じような普通の人間なのに、あの人は幸せに暮らしている、苦しみなど知らずに生きている、とか、

自分の不幸に、何故自分だけがこのような目に遭わなければならないのか、神はえこひいきをしている、自分のことは目に留めてくれていない、

更に進んで、神は本当にいるのか、そういう思いにわたしたちは捉われることがあります。

インド洋大津波では、十五万人を越える人々が命を失い、その半数は子供だということです。たとえ命は助かっても、家族や友人を失い、財産や生活の糧を失い、途方に暮れている多くの人々がいます。

この世の全てのことが神のみ心によるとすれば、いったいそこにはどのような御心があるのか。いくら考えても答えは出ません。

全てを運命と言ってしまえれば楽なのかもしれませんが、全能の父なる神を信じて生きる者にとっては、これらのことによって、信仰を揺るがすことにもなりかねません。

カインが直面したのもまさにそういう事態でした。彼は自らの人生において、神の御心の謎に直面させられたのです。その怒りを、アベルに向けました。
 
神は、11節と12節で罪に対する報いを与えても15節で神は、「いや、それゆえカインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるであろう。」と、神はカインに出会う者が誰も彼を殺すことがないようにカインを守られた。こうして愛を示されました。

それではカインは神に対しどのような態度をとればよかったのか。それは、わたしを拒否するのではなく、その苦しみを、怒りを、子が親にするようにわたしに向けなさい、といっておられるのではないでしょうか。

そこには親子の信頼、神への信仰があります。

カインが、神のみ顔をしっかり見上げて、「わたしは精一杯献げ物をした。何故あなたはそれを受け入れて下さらないのか。

何故わたしの努力を、働きを祝福して下さらないのか」と愚痴をこぼせばよかったのではなかろうか。

神はわたしたちの目を、思いを自分に向けさせることによって、罪に陥ることを防ごうとしておられるのではなかろうか。

神がカインとアベルのささげ物のどちらを選ばれるかは「神の自由」と書きましたが、新約聖書ローマの信徒への手紙の第9章11、12節の後半に「それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」と。

また15節には「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という言葉があります。神はこのような自由な選びによって、人間を罪から救い出すためのご計画を進めておられる。

分からないことが起こったら、どのように対応するかはその人の問題です。躓いて神から離れる人もいるでしょうし、なお、神を信頼してついて行く人もいるでしょう。

神に愚痴をこぼすのはよいが、神を否定するようなことにならないように祈りたいと思います。

それでも人生には分からないことが残り続けます。

しかし、神に背を向けるのではなく、神の愛と無条件の恩恵を示す、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて、そこに希望を持ってこの世を生きていきなさいといわれているように思います。

人間は神に背を向けて、16節の導き手のいない、さすらう者となったが、15節の神の守りと、愛を信じて生きることが求められているのではなかろうか。

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コメント

初めてこのサイトを見させていただいております。いずれのページも聖書をよく読まれ、考えておられるのが伝わってきます。私もクリスチャン(プロテスタント)でして、聖書のことについて、学んでいるところです。
ところで、カインとアベルの捧げ物の箇所は、カインが、自分の努力の結晶を捧げた。すなわち、自らの行いによって罪が許されると思っていたことを神が咎められ、アベルの捧げ物は傷の無い子羊。すなわち自らの努力によるものではなく、神から与えられたものを捧げ物としたこと、また、この捧げ物は、傷の無いすなわち罪の無いものの血によるものであるという点から、主イエスの十字架上での贖いの雛形であると考えられます。
人が罪を許されるのは自らの行いによるのではなく、神からの恵み、すなわちイエスの死による贖い以外には無いことを考えさせられる箇所ですね。
以上長くなってしまいすみませんでした。

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