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2008年1月24日 (木)

楽園(エデンの園)物語(2)

今回は、アダムとエバに罪が入ったときの二人の対応を見て見ます。面白いですよ。人間のもつずるさが、自己中心性がよく出ています。

エデンの園は、食べ物は豊富で産みの苦しみもない。気候もよく、身の危険もない楽園でした。おそらく神の使い天使に守られていたのですね。

アダムとエバは、そこですでに地上を支配していた悪霊(ヘビ=サタン)にそそのかされ、無垢で善良なるがゆえに巧妙にだまされ、罪(神に善悪の判断を求めず自分で判断する。神との約束を破った)を犯してしまいます。

神は人間に人間らしくあるために自由意志を与えましたが、その自由意志を、人間は神から離れて自分で善悪を判断するという方向に使ってしまったのです。

こうして神と人間はだんだんと交流が途絶えていくのです。これをキリスト教では原罪と言っています。

かくして、アダムとエバは、後で書きますが、罪の罰として、永遠の命が得られる「命の木の実」が食べられなくなり永遠に生きる手段を失いました。

それが今の人間の先祖であり、今の人間にその罪は引き継がれました。もちろん、この命というのは来世を持生きる霊の命のことです。肉体はこの世と別れるときに滅びます。

ここのサタンの誘いがまた面白い。サタンはエバに、その木の実を食べても、決して死ぬことはなく。目が開け、神の様に善悪を知るものとなる。

つまり自分で善悪を判断して生きたほうがいいよ。その知恵をつくのだから、とさそいをかけます。

サタンは、創造主である神の命令にそむくように仕向け、神に離反した自分の仲間になるように仕向けます。善悪の判断を神に頼らなくて、なんでも自分で決めて自由に生きることができるようになるよ、ということです。

アダムとエバは、結果的にはサタン達に影響されます。サタンはまずエバをそそのかします。女の方が騙しやすいのでしょうかね。

エバは、この実を食べると神のように賢くなって善悪の判断を神に頼らなくてよくなりますよ、というサタンの誘惑に乗ってその実を食べます。

このときのエバの言葉が、「女が見ると(まだ名前がついていない)、その木はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創世記第3章6節)。

「おいしそう」は肉的、動物的な本能で、「目をひきつける」は美を現し、「賢くなる」は知を表す。三つがそろえば人間の本質的に持っている欲望が満たされます。

こうしてみると、エバが失敗した理由は、何も特別なことでなく誰でもが負けそうな誘惑でありました。それが罪の実態だということです。

エバはアダムにもその実を食べることを勧めますが、アダムが食べた理由は、書かれていません。「食べた」だけです。きっとアダムはエバを愛するゆえに、あるいは無垢なるがゆえに疑うことを知らなかったのでしょう。

ここらは、今の男女の性質に何か似ているような気がしますね。誘惑されやすい女と女に弱い男そのものです。

アダムとエバに罪が入ると、「二人は目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人は無花果の葉をつづり合わせて腰を覆うものとした」(創世記第3章7節)。

羞恥心というかやましい気持ちが伴った自意識(神から離反のはじまりか)が生まれたのですね。

といっても、無花果の葉ですから、すぐにしおれてしまいますからそんなに強力なものではありません。

アダムとエバは善悪の判断を自分でするようになると言うことは、二人は一体であったのに他者の関係になったということ。他者を意識するということは、自我が生まれ自己中心性が強く表に出るようになる。

善悪の知識の木から食べるとなぜ罪かというと、このときアダムとエバは善悪の何たるかも分からない本当に初心な存在であったので、神は善悪の判断を自分に委ねなさいといわれたのであります。

その約束を破って自分で生きようとしたからです。神に保護されるよりも、自分で自分を覆う存在となったのです。つまり人間の持つ罪の源である自己中心性が芽生えたのです。

園の中央の木の実を食べたエバは、できもしないのに、以後自らを神のような立場に於いて、自己流に善悪判断をしていくことになります(創世記3章2-5)。

ということは、日常的に神に意識を向けつづけるのを止めるということになります。

そうすると、二人をサタンの影響から守っていた神の聖なる霊は、二人をサタンから守れなくなり、神と疎遠になりサタン達の影響が大きくなります。

「風の吹くころ、神はアダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、神はアダムを呼ばれた。」「どこにいるのか」(創世記3章8節から9節)。

神から離反すると人間は自己中心になり、神の保護により生きていることも忘れて、神からどんどん離れて行くのです。

ここで神はアダムらに対し、「どこにいるのか」といって探しておられます。これは、アダムらの居場所を尋ねておられるのではなく、アダムらは神から離反して自己中心的な自分勝手な生き方をしょうとしているので、その、生き方を問うておられるのでしょう。

神はアダムに、「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」という質問に対してアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました」(創世記3章12節)。

アダムは神に責任転嫁です。女をかばうこともしません。「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」といって愛していても、いざとなったら我が身が大切ということです。これも罪の本質である自己愛が表に現れた姿です。

女は神の詰問に、「蛇がだましたので食べてしまいました」またまた責任転嫁です。もちろん、蛇はサタンを表します。

ここで罪を認め悔改めていたら、罪は赦され人類は今のような悲惨な状態に陥っていないのではなかろうか。人類は平和なエデンの園で暮らしていたかもしれませんね。

しかし、この世の支配者はサタンであるからサタンの誘惑には勝てません。やはりそれは無理ですか。無垢で初心であったアダムとエバにも罪なる性質が入り始めています。

木の実を食べたエバに神がいわれました。「何ということをしたのか。」これに対する女のこたえがまた面白い。「蛇がだましたので、食べてしまいました」(創世記3章13節)。またまた蛇に責任転嫁です。

今のわたしたちと同じです。何でも悪いことは人の責任です。自己中心的で自己愛的です。自分を守ることしか考えていないのです。次回は、罪を犯した二人がどのようになったかを書きます。

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