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2007年12月 1日 (土)

現世を生きる

 この世は辛いことが多すぎます。辛い人生の渦中にいる人に、わたしが、人生如何に生きるべきか、なんて偉そうなことを言っても、所詮言っているだけ、このようなブログを書いていてもわたしの自己満足に過ぎない。人間の忍耐には限界があります。しかし、自分に取って意味のある苦難であるならそれは担うことも容易です。

また、その苦難に有無を言わせないほどの意味を与えるのは神の意志だとどこかで聞きました。いまの苦難が神の意志であることに確信がもてればよいのですが・・・。

それは信仰ですね。神の意志だと確信がもてれば、その苦難は、意味があり希望があるということになります。 
神が支配されている世なら、この世の苦難はすべて神の意志だといえます。


聖書には、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書第6章34節)と書いてあります。

確かに、明日生きているかどうかさえわからないわたしたちですから、何を心配している、といわれればその通りです。でも人間は弱いものです。

心配するなといわれても心配する。現実は、何も考えずに能天気に生きることは難しい。

先の聖句は、おそらくどうにもならない心配のことを言っているのだと思います。真面目にやるべきことをやっていれば神が何とかしてくださる、という信仰を言っておられるのでしょう。

艱難の最中にいる方から、なぜわたしがこのような目に会わなければいけないのか教えてくれ、と言われたら、納得できる答えは多分出来ないでしょう。

人生の艱難は、何処までいってもその人個人の問題で、そこに艱難の意味があると思いますから。

この世の出来事の全ては、原因があって結果があるという考え方があります。今あるわたしは、いままでにわたしが歩いてきた結果。

生まれたときは、誰でも可能性が一番大きい、それから生き方を選択する都度、選択幅は、可能性は小さくなっていく。

そして年老いて可能性は殆どなくなる。ところが、生きようとする力、精神力はどうであろうか。

重度の障害を持つ人、不治の病におかされた人、経済的に追い詰められている人などは人生をギリギリの状態で生きておられる。

それらの人は、大きなハンデイを負った上で、ハンデイを受容した上での生き方が問われている。とくに、死に直面した状況の中にいる人は、「生きる」ことへの問いが真剣に問われています。

人間、どんなに辛いことが多くても生きることをあきらめることは難しい。あきらめたといっておられる方も決してあきらめてはおられない。

それは創造主の意志。命ある限り一生懸命生きるように造られているからだではなかろうか。

生きることをあきらめることは自殺すること。神は自殺を誡められています。生きていることに少しでも希望があれば人生はあきらめられない。

最近老人問題が多く論じられています。わたしも近いうちに当事者になります。関心があるのでときたまそれに関する記事を読みますが、それも結局は「生きる」こと、「生き方」の問題に尽きると思います。

老人は、肉体の機能が衰え、社会的にも疎外されるという状況の中で、人間として生きるとはどういうことかが改めて問われているのだと思います。

社会から疎外されることほど辛いことはありません。人との繋がりがなくなることほど辛いことはありません。

誰も関心を持ってくれない、名も知れず、会話する人もなく、存在すら知られず静かにこの世から消えていく、孤独死が多いと聞きます。このようなことを考えると余り長生きはしたくないものです。

人間の精神は本来、自分という者を自覚して生きるように造られています。

逆にいえば自分を主張するために人生を生きているようなものだと思います。

だから、生が否定される、否定されかねない状況に至っては、否応なく生き方の問題が自覚されるようになります。

そして、精神は「何のために生きるのか」、「よく生きるとはどういうことか」「どうすれば生きられるのか」と問いかけます。

肉体が死に直面するときも、死への不安を超えて未来に生きようとする力を与えられているはずだと思います。

なぜなら、本来人間は永遠の生命をもった存在であるからで、永遠の存在である神から離反した人間にはそれが認識出来ないだけではないでしょうか。

聖書によると、この体は土のちりで造られたが、動物にはない神の命の息が吹きこまれて、人には魂が宿り、生きるものとなりました(旧約聖書創世記2章7節)。

ここで命の息というのは魂、つまりプシケーで、プシケーとは精神、魂、生命を意味する語ということです。

人は動物のように単に生きているだけの身体になったのではない。魂が宿り、将来を考えて生きるようになった。

そのため人はよりよく生きるために、からだの健康に留意しつつも、究極的には生きる力とか精神を魂に求めざるをえないものとなった。
 
しかし生きる力としての魂は、地上で生きるためのものであるから、魂が死ぬと、魂に属するからだは腐敗し土に帰ります。

聖書では、人を真に生かすものは魂ではなく霊だということになっています。

魂と霊はよく似ていますが全く別のもので、魂は人間が地上で生きるために生まれながら持っている固有の命で、霊は創造主である神に属します。

魂は自ら生きる力を与えられているが、地上だけのものだから限界がある。

霊こそ人を真に、永遠に生かす力だということです。

人は創造主である神からの霊を受けてはじめて永遠の生命を持つことになります。

人は、創造主に似たものとして造られているから、本来は霊と交信する能力をもっているはずです。

人は本来永遠に生きるものであったが、創造主からの離反により神の霊との交流が出来なくなって、死ぬ者となりました(旧約聖書創世記3章19節)。
 
聖書は、イエスを知ることは神を知ることと教えています。

それは、イエスの復活の御霊、聖霊がイエスを信じる者の中に内住することによってなされるとなっています。このとき、魂は自分の故郷が神のもとであって、本来永遠に生きる存在であることを知る。

そうなれば、魂はこの肉体の死が故郷へ帰るための単なる通過点に過ぎないことを知り、現世を生きる苦しみを、死への不安を乗りこえることが出来るということでしょうか。

その先の世界に希望がもてたら、現世を生きる生き方も自ずと変わるでしょう。その先に希望をもって喜んで死んでいくクリスチャンも多いと聞きます。

魂(命)は、本来輝いているものだと思いませんか。理想とする生き方とは、そう言うものではないだろうかと思うのですが。いずれにしても、人間にはできないこと。

神の霊、聖霊の助けがあって始めてできることだと思います。

前記した問題の解決方法は、やはりイエスを信じることのほかに方法はないということになります。

わたしも、そういう信仰をもてたらいいなと思います。他に何か方法があるでしょうか。わたしにはわかりません。

「最初の人アダムは命のある(プシケー)生きものとなった。と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊(プニュマ)となったのです。」(新約聖書コリント人への第一の手紙 15章45節後半)

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