死を迎えるための準備
聖書は、人間には、肉体の命と霊的な命の二種類があることを教えます。だから死にも、肉体の死と霊的な命の消滅を意味する死があることを教えます。
ルカによる福音書第12章4節にこのような聖句があります。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
この聖句は、肉体の命より霊的な命の方がはるかに重要であると教えます。
なぜなら、肉体の命は次の世へ行くときに滅んで消えてしまいますが、霊的な命は、本来永遠に生きるもので、神様に離反してから死ぬものとなったのですが、その命の消長の権利を握っているのは神様だから神様を恐れなさいということです。
この世には、不条理、不公平が多く正義はなされない。試練も多く忍耐が試されることもたびたびであります。
もし試練の彼方に、天国があると信じることができれば、試練も喜びに変わると聖書は教えます。
あなたの創造主である神と和解ができれば、つまりイエスを信じれば、神の霊、聖霊がその人の内に住み、その人の罪をぬぐい、次の世では、復活させ天国へ導いて下さると言うことです。
人間は、子孫を残し自立させてもまだ平均寿命まで三十年は生きながらえます。
これは、動物のように子孫を残せば、自立させれば終わりではないということになります。
与えられた三十年は、おそらく動物にはない、肉体の死を迎えるための、次ぎの世に備えるための準備期間が与えられていると考えられないでしょうか。
人は生きてきたように死ぬという意味において、死は人にとって一生をかけての最大の事業であるといえます。
しかし、死が肉体の消滅で終わりなら、大事業ではなく、ただ肉体が滅んだらその人の人生は終わるだけであります。あとには何も残らない、無であります。土の塵で造られたから塵に帰るだけです。
ところが、人間は肉体の死で終わりでないと、聖書は教えます。あなたは霊が本体であるから、あなたの霊の故郷である神の身元に飛び立つまでこの肉の器の中で準備をしなさい、それがあなたに託されたこの世における最大の事業であるといわれています。死は生の一部、単なる通過点ということです。
青年期から、聖書出会い、死の訪れを心して待つ人には、死が光栄に満ちた仕事であると信じられるときが来ると聞きます。
わたしのように、五十も過ぎてから聖書に出会い死への準備が始まったとすれば、なんとも心もとない。でも、神様のなさることは時に適っているとすれば、
わたしを聖書に出会わされたのは、まだ遅くはない、これから死の準備をしなさい、人生最後のお仕事、次の世の準備をしなさいといわれているような気がします。
どこかで読んだのですが、「死が恐いというのは、おそらく死んだ後のことが分からないから、想像によって喚起されるからだ。」と書いてありました。
死は経験していない未知のことだから、取り乱しておそれる人も架空の想像上の死を恐れているのだということです。人は未知のことには恐れを抱くものです。
わたしは、未知の世界のことを伝える聖書に出会い、そのように死への恐れが観念的なものなら、信仰を持てばその恐れから乗り越えられるのではないかと思うようになりました。これも死ぬための準備と心得ております。
死への準備は、この世に生まれてきてすぐに始まります。人生には幼年時代があり、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代がある。
これ全体にして一つ。各時代を経験して人格は成長するもので、老年を迎えて人生は完成します。そこまで生かされたら、神様の祝福だと感謝すべきではないでしょうか。
でも、よく考えれば、人一倍生きるということは、祝福された人生であれ、どのような人生であれ、それは神様がなされたことだから、すべてその人にとって最善であるということ。
だから、やはりそれは恵みであって感謝すべきと思います。この世で経験した全てのことは、その人のためにプラスになるように用いてくださるのです。
死は人格成長プロセスの最終段階という考え方をすると、中世ヨーロッパでは「死とは時間をかけて、努力して磨き上げるべき芸術」だという思想があったということです。汝、死すべきことを覚えよ、ですね。
パスカルは、人生の目的は幸福であるとした上で、真の幸福を考察しています。そして彼は、人間が幸福になるには、死の問題を克服し、来世での幸せが保証されなければならない、と確信します。
「死んだら死んだときだよ」とウソぶき、まじめに死を考えようとしない輩は、パスカルに言わせれば”人間じゃない”のかも知れません。
歳をとると、肉体的には脳細胞の数が減り判断力も、記憶力も、そして、筋肉も衰えてきますが、精神はその人の精進次第で最後まで成長すると言われています。
三十代のときの考えより、五十歳、六十歳、七十歳と年を重ねるほど思考も豊かになります。人生楽しければ長生きしたいと思います。
でもその楽しいということに一つ加えれば、もし、老年期に苦しみにあっても、その苦しみに意味があれば楽しいと言えるのではないでしょうか。
もし、人一倍長く生きることができたら、神様がきっと意味があってそのようにされていると思います。
わたしは、人間が神の創造された作品であるならば、この世で経験するすべてのことに意味があると思うのです。
老人になることは、淋しくもあり苦しくもある。なぜなら、自分の身体の自由がきかなくなったり、記憶力が悪くなったり、美しい人が醜くなったり、社会的地位を失ったり、親しかった友もいなくなる。
後に残るのは自分の気力と人格だけです。人は少しずつそれらのことを受け入れながら、多くの人はその中で成熟します。いや、真実はあきらめかもしれませんが、死ぬための準備といえるのではないでしょうか。
そのような中で歩む老年期は、人格の完成期とでもいうのでしょうか。逆に老年を知らずに若くして死ぬことは人格を完成させずに死に逝くことになりますが、神がそうなされたのなら、その人の人生はそれで完全であるととらえるべきだと思います。
だから、わたしの人生も、神に召されるときがくれば、そのときがわたしのこの世の人生が完了したときといえます。
その時がいつ来るのか、わたしには分からないから、すべてを創造主である神様に委ねて、そのときが来るまでその日その日を大切に生きていけばそれでいいと思います。
わたし達人間は、いつ死が訪れるかもしれない。明日かも分からない、だから、今を一生懸命生きること。
後悔しないために今日すべきことは今日しょうと思う。わたしが死ぬときをご存知なのは、わたしを造られた創造主である神様のみであります。
最後に、長生きすると良いことがあるということを紹介します。長生きできることは神の祝福と思います。
なぜなら、あるお医者さんが言っておられました。高齢になると病気の症状は軽くなります。ガンが進行してもゆっくりとなります、痛みに対する感受性も低下します。八十も過ぎると、無痛性心筋梗塞というのもあります。
安らかな死を望むなら、できるだけ長寿で健康に過ごすことが痛みのない自然死を迎えることが出来るということです。
神に祝福されて、長生きすることはいいことずくめですね。老衰で死にましょう。楽に死ねて、次ぎの世に確りと希望を持てる信仰が持てれば最高です。
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