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2007年12月20日 (木)

他人と比較すること

人間は他人との関わりの中で生きている動物ですから、また相対的にしかものを見ることができない動物ですから、自己と他人、他人と他人を比較することにより自分の存在を知る、というところがあります。

親は子を自立させるために育てますが、自立ということはあくまで他人との関係を上手く保って生きていけるようになる、ということだと思います。

もし、地球上に人類は自分ひとりだとすれば、どうなるでしょう。わたしなど発狂するかもしれません。生きる意味などどこにも見出せません。


人間はその字のごとく人の間で生きる、いやそこでしか生きられない動物だと思うのです。だからその中で自分を保つためには、比較するということは避けられないことなのでしょう。

比較するということは、何を価値判断の基準にするかは問題ですが、わたしはあの人より、あるいはあの人はあの人より優れているとか、劣っているというように優劣を決めるのが目的でしょう。

さて、いつもの通り聖書を見てみましょう。聖書には、他人との比較について、このような聖句があります。コリント人への手紙第二、10章12節「彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」。

みじめになりたければ、人と比較せよ、とある人がいいました。比較することは、このように知恵のないことなので す。

しかし、比較することは、また比較されることは、ある意味、その人のアイデンテイテイを保つのに必要なことですから、やめろといわれてもなかなかできません。

絶対者である神の前で自我を捨てることができても、人の前で自我を捨てることなどできるのでしょうか。他人の中での自立を求められる人間には、無理な相談でしょう。

自分と他人を比較することをすべてやめることは無理でも。聖書で戒めている比較にはどのような比較があるかを見てみたいと思います。

自分の方が相手より、能力、地位、容姿が優れている。これは高慢を生み他人を見下すようになります。

聖書は、高慢を戒めています。聖句は、「痛手(破滅とも)に先立つのは驕り。つまずき(痛手とも)に先立つのは高慢な霊」(旧約聖書箴言16章18節)です。

皆さんご存知の通り、高慢な人は最も人に嫌われます。

その人の周りには人は寄ってきません。逆に、自分の方が相手より劣っていると感じる場合があります。

これについても、聖書には次のような聖句があります。「人は恐怖の罠にかかる。主を信頼する者は高いところに置かれる。」(旧約聖書箴言 29章25節)です。

人と比べて劣っているかも、という恐れを抱くと罠にかかる。これはまさしく劣等感ですね。劣等感に取り付かれたら人の心はすさみ罪を犯すもととなります。

「高いところに置かれる」というのは、神を信頼したら神に守られるということだと思います。

他人と他人を比較する。親が子どもと子どもを比較する。不用意な親の比較が子どもをいじけさす。

このことも聖書には、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(新約聖書エフエソの信徒への手紙第6章4節)と書いてあります。

子供が怒るということは、理由のない比較はいけないと言うことでしょうね。子供でも怒られる理由があれば納得するということ。怒られる理由をわからせて怒るべきだということでしょう。

このように自分と他人、他人と他人を比較するのは、後味が悪く、決していい気持ちでないのは誰でもわかっているのですが、わたしたちは、何についても人と比較してしまいます。

もちろん、やる気を起こさせるために、自分が反省する為に、比較が良い結果を生むこともありますが、人間一人ひとりの資質が違うので、やはり難しいところです。比較には二つの形があります。聖書では次ぎのようにいっています。

一つは、神は人間一人ひとりを違ってお造りになった。そのように造られたのは計り知れない目的があってのこと。

神が造られた人間も含めた万物は、多様性に富んでいます。違っているからこそ美しいし、補い合って行ける。

神は一人ひとりをかけがえのない存在として、愛してくださっている。ある人は優れていて、ある人は劣っているように見えても、神は私たち一人一人を愛してくださっている。

そう、そのままの状態でいいのですよ、といわれている。

このように、一人ひとり違っても、それは意味があってそのように造られているから。だから、神は誰にでも平等に愛と恩恵を与えて下さる。これを創造の御業と言うのでしょう。

イエスの十字架による罪の贖いという御業にしても、その恩恵を受けるのに、人間には何の努力も資格も必要がない。

ただ、イエスがわたしの罪を贖うために十字架に架けられ死んでくださった、ということを信じるだけでよい。

そのように考えると、他人と比較することは、知恵のないことと分かっていますが、ついつい比較してしまいます。

それが人の本性なら、強引にそのような気持ちを押さえ込むのではなくて、一人ひとりが違っていて当たり前だということを認識して、人の良いところを見るように心がければどうでしょう。

そのようにして気持ちを前向きに転化させる。
 
他人のことは気にせず、あなたはあなた、あるがままの姿で、与えられた賜物を精一杯生かすようにしなさい、といわれているような気がします。

神もきっと、お互い励ましあいながら、相手を思いやりながら、助け合って人生を送りなさいと、いっておられるのでしょう。
 
それもお互いに違っているからこそ必要な言葉だと思います。「隣人を、自分を愛するように愛しなさい」という聖句もそのような場で活かされるのではないでしょうか。
 
神はそのことを教えるために、人間一人ひとりを違ってお造りになったと思います。すこし優れているからといって、それは何もあなたの力ではなく神の恩恵である。

そのようなこともわきまえずに、驕りをもてば罪に陥るといっておられます。そうなると、自分の本当の姿が見えなくなります。
 
新約聖書マタイによる福音書第7章3節に次のような聖句があります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。

この聖句は、「おが屑と丸太」というように誇張されて対比していますが、枝葉末節の問題と根本的な問題の対比だと思います。
 
もちろん、丸太というのは、人のことよりもあなたにとっていま何が重大かという問題、それは、いまあなたの前にいるわたしを信じることだ、といっておられます。

いまあなたにとってその時だと言っておられます。人との比較という枝葉末節のことよりも、あなたが今やるべきもっと大切なことがあるのではないですか、と問われていると思います。

比較して非難することは、神が強く戒めておられる人を裁くことになりますので、厳に慎むべきことであると思います。
 
裁きの聖句は、新約聖書マタイによる福音書第7章1節と2節に、「人を裁くな、あなた方も裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とあります。
 
人を裁いたらいずれ自分も裁かれる。それも自分が人を裁いた時の価値観で裁かれます。

また心の病んでいる人、弱い人に対しては、その人がその様になった原因を詮索していちいち非難するのではなく、現状あるがまま、何の条件もつけずに(自分を愛するように)、理解と思いやりをもって対応することが必要なのでしょう。

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コメント

本当に素晴らしい内容です。

この記事に巡り合えたこと
導かれたことに感謝いたします。

ありがとうございます。

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