悲しむ人々は、幸いである
生きるということは辛いですね、生きているとなぜこうも悲しいことばかりがおこるのでしょうか。テレビを見ていると、辛くて悲しい事件が多すぎます。
表にはでていないが、当事者のいろいろなやむにやまれぬ思いがあるのでしょうね。テレビで報道されることはその人の人生のほんの一部だけですからね。
人間みんなそれぞれが、一生懸命生きている。強い者も弱いものもみんな一生懸命生きている。
様々な人生があります、どうしょうもない人生もありますが、そうしなければ生きては行けないからそうしている、それが人の性というものでしょうか。
人は自分が持つ性からはなかなか抜け出せないものです。だれも不幸になろうとして生きているわけではないのにね。
殺人者も人を殺したいと思って殺すのではなく、そこにはおそらく追い詰められた事情があるのでしょう。
もちろん、加害者は裁かれなければなりませんが、加害者が、そうせざるをえない事態に置かれたことを、また被害者の親族のことを考えると両当事者の心情に救いがたい悲しみを覚えます。
この世の中、一歩間違えば誰がどの立場になってもおかしくはないと思うのです。
この社会はそのような社会ですから。そうゆう意味から、いまヨーロッパで広がっている死刑廃止も理解できるような気がします。
どんなに権力を誇っても、勝組みといわれても所詮滅びる命には変わりがありません。それほどまでして生きなければならない人間は、なんと悲しくて哀れな存在でしょうか。
このような悲しみも、苦しみも人間が罪を持つからだといえます。罪は創造主がおられるから罪があると言えます。
人間が自ずから創造主である神様から離反した結果。だから人間が苦しむのも悲しむのも自業自得なのですね。
それにしても、こんな人間の社会を、醜くて、哀れで、生き地獄のような社会を、創造主であられる神様はなぜ放置されているのでしょうか。
苦しむ人や悲しむ人が癒されなければ、不公平も不条理もどこかで正されなければなんともやりきれないものがあります。
聖書には、そのためにイエス・キリストがこの世にこられたと書いてあります。そうです、決して神様は人間を放置していたわけではないのです。
苦しみや悲しみが癒されるためには、まずその原因である罪が赦されなければなりません。そのためにイエスはこの世にこられたのです。
罪の為に滅び行く命を救うために、約2000年前に、十字架によるイエスの死と復活という、神のみ業を示されました。
だからそのときにすべての人間の罪が赦され、それから以降、誰でもがその恩恵の恵みを得る機会を与えられています。ただ、その恩恵を受けるための条件が、罪を悔い改め、イエスを信じることなのです。
そして、すべての悪が裁かれるのが、正義がなされるのはクリスチャンでもない人でも知っている、「最後の審判」です。
罪ある状態のままで死んだ人間は、そこで裁きを受けるので、このときを「最後の審判」といいます。
生前にイエスを信じた既に罪が赦されている人間は、すでにそのときは天国に行っています。そのときにまさに公平な裁き、正義がなされるのです。
生きていれば苦しいこと悲しいことばかりです。これもキリスト教で言えば、人間がもつ原罪と、サタンとか悪霊の影響となるのでしょう。でも、聖書にはこのような聖句があります。
「今餓えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(新約聖書ルカによる福音書第6章21節)
イエスのもとに集まってきた群衆は、悲しみの中にあった人々が多かった。悪霊にとりつかれている、と世間から爪はじきにされている人。不治の病に冒されている人。体が不自由で差別を受けてきた人‥‥。
社会の底辺層に生きる人々、いわゆる餓え、また泣いている人であります。それらの人々が負っている悲しみを、苦しみをイエスは癒されました。
このみ言葉は、イエスの有名な「山上の説教」の一節です。その意味は、「悲しみ」それ自体が幸いであるとおっしゃっているのではありません。「悲しみ」はやはり「悲しみ」です。
また、この聖句は「道徳訓」とか「人生訓」でもありません。将来実現するであろうことを言われているのです。
だから、山上の説教は、イエスが言われてはじめて成り立つ言葉なのです。なぜなら、神の言葉は必ず実現すると言う前提が聖書にはあるのです。イエスは神の子ですから、イエスが言われたことは必ず実現するのです。
マザー・テレサがニューヨークにいたときのことが、本に書かれています。マザーたちの施設にいる一人の若いエイズ患者がマザーを呼び止めたそうです。そしてその青年が言ったそうです。
「あなたは私の友達だから打ち明けるのですが、頭痛がしてたまらない時(エイズの特徴の一つはひどい頭痛だそうです)、私は、茨の冠をかぶせられた時のイエスさまの苦しみを思うのです。
痛みが背中に移動した時には、兵士たちがむち打った時のイエスさまの痛み、そして私の手に痛みが走るときには、十字架に釘付けられた時のイエスさまの痛みを思うことにしています。」
彼は自分が治る見込みがないことを知っていたそうです。そしてそれを勇気を持って受け入れていたと、マザーは言っています。
そして彼は、その勇気を、自分の苦しみをイエスと分かち合う愛において見出した、と書いてありました。
そして、彼の顔には苦しみとか不安の影はなく、むしろ、大きな平安と深い喜びが漂っていたということです。
きっと、イエスの天国への約束の言葉を信じ、次ぎの世に希望をもったのでしょうね。人間、希望があれば辛いことにも耐えられると聞きます。
悲しみの、苦しみの最中にいる人は、神様なんているのだろうかと恨みたくもなります。でも、悲しみや苦しみは神さまから見捨てられた証拠ではありません。
いや、むしろ神さまから戴いた恵みと捉えるべきかもしれません。
なぜなら、餓えているとか、泣いている人は、おそらく自分に誇るべきものは何もない、頼るべき何物もない人だと思うのです。神様にすがるしかすべのない人々なのです。
そういう人は、この世に未練を残すものがないから、イエスの教えを受け入れやすい。救いの道に入りやすい。だから天国への道も近いといえるのではないでしょうか。
天国への道は、自分の罪を認め、自分の弱さを認め、自分を捨てて神に従う人が一番近い人だと思いますが、そのことに一番近い人は、この世に未練を持たない、守るべきものを持たない人といえるのではないでしょうか。
神の祝福と恵みは、低いとこにとどまると聞きます。
低ければ低いほど祝福と恵みは大きいともいえます。そのような人は、イエスを信じ、罪が赦され救われて天国へ行ったときの喜びは大きいといえます。
だから「幸いである」と言えるのだと思います。
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