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2007年11月 3日 (土)

罪と救いの構造

聖書では、人間みんな罪人、となっています。これは原罪をもつからですが、信仰を持たない人には理解し難いことであります。一般的には、刑法に抵触して裁判所で有罪の判決を受けなければ罪人とは言いません。

しかし、聖書での罪の構造は、まず原罪がある、その周りに思っただけで罪となる思いの罪(裁き、盗み、殺し、姦淫などの思い)があり、更にその周りに行いの罪(思いが実際の行動につながる)があります。

このように三重構造になっていて、神様は全ての罪を罰せられる。刑法で裁く罪は、上のうち表から見える行いの罪だけであります。


聖書での罪を具体的にいえば、人間は本来自己中心で、自分のことはすぐに赦すのに他人をなかなか赦せない存在であること、自己愛的な存在であることです。殺人とか傷害ばかりが罪ではありません。

人間はすぐに責任転嫁するし、謝る事が苦手な存在です。謝るには一大決心が必要です。本来人間は、何か大きな罪が赦された感謝の体験がないと、なかなか他人を赦せない存在です。

つぎに、人間に原罪が入った原因を考えてみます。

原罪とは、ことの善悪の判断を、人間を創造した創造主である神に依存しないで、自分で善悪の判断をしょうとすることをいいます。

つまり、自分を造った神である創造主を思う心を意識の内に保持しない状態、神から離反した状態です。旧約聖書の創世記に人間に罪が入った時の状況をまとめてみると次のようになります。

「人の体は土の塵で造られているが、神の命の息、すなわち神の霊を吹き込まれて生きた者になった。この霊に

よって、人は神と交わり、神と同じ生命に生きる存在となった。現在の人類は、そこから始まっていて、その子孫である。つまり人は本来永遠に生きる存在であったのです。

ところが、人は蛇(サタン)にそそのかされて、『それを食べると必ず死ぬ』と言われていた善悪を知る木の実を食べてしまった。

それは、神に敵対する霊的存在であるサタンの誘惑に負けて、ことの善悪の判断を自ら行い、神のようになりたいという高ぶりに陥り、背神という根元的な罪を犯したのであります。

神様への背信は、神様は、人間が人間らしくあるために人間に自由意志を与えましたが、その自由意志を悪用した結果だと思います。

その結果、神との交わりは断たれ、命の根源である神の霊を受けることができなくなり、人間の霊は死ぬことになり、自らを恥じて神の前から隠れるようになってしまった」。 

この人間の創造と神からの離反は、神話的な形式で語られていますが、これは現実の人間そのものの姿をあらわすものだと思います。

この物語で「人」と訳されているヘブライ語原語が「アダム」であります。本来アダムとは人自身のことであり、アダムの姿は人間そのものの姿なのです。そして、わたし自身の姿でもあります。

人が神から離反した結果、神は人との間で霊的な交信ができなくなり、常に人間に注がれていた命の根源である霊の力は欠乏し、サタンの影響をもろに受けるようになり、神のはじめの業である天地万物も、死の影を宿し、滅びにむかうものとなったのです。

肉体は滅ぶのは当然としても、もともと永遠に生きる存在であった人間の霊も死ぬ者となったのです。(新約聖書ローマの信徒への手紙第6章23節)。

イエス・キリストがこの世にこられるまでは、この世の支配者はサタン(この世の君ともいいますが)でしたが、サタンも霊的存在ですが被造物で、もともと神につかえる天使でありましたが、神のように自分も崇められたいという欲求をもち神から離れ変質しました。

だからサタンは人間と違ってその本質が罪であります。

アダムとイブはサタンに騙されて、神との交信は不協和なものとなりましたが、神と交信出来なくなったその霊は天国の雛型であるエデンの園を去らざるをえなくなります。

なぜなら、天国には、罪が無い者、罪が赦された者しか入れないということになっているからです。

今から約4000年前、神は信仰深いアブラハムに対し、その子孫を星の数ほど増やすという約束を与えます。

そして、この子孫が形成する民族を、以後人類へのメッセージの受け皿としました。そのメッセージを記録し、編集したものが旧約聖書であります。

そして、その子孫とはイスラエル民族のことをいいます。

神は、預言者という特定の人間を通してその意志を人間に伝えました。

イエスの誕生を予定する為に、また未開の民であったイスラエル民族の信仰上の純潔を守り、しつけ育てる為に、律法を与えそれを守るように厳しく命じました。

神はイスラエルに預言者たてその者を通して、イエスの誕生を預言(イザヤ書53章1-6ほか)します。

その預言者の言葉は書き留められ、かつ民に話し伝えられる。それら預言者の言葉が律法とともにまとめられたものが、ユダヤ人だけの宗教(ユダヤ教)の教典となっている旧約聖書ということになります。

イスラエル民族は、イエス誕生の預言を、人類でなく自分たちの王、自分たちの救い主の誕生の預言と受け取ります。

今から約2000年前、イスラエルは強国にはさまれ、民は退廃しメシヤ待望の期待が頂点に達した時、

イエスが現れて、この旧約聖書は、そもそもユダヤ人だけのものではない、人類へのメッセージで、メシヤ預言は、わたしのことだと教え始めます。

イスラエルの支配者階級である律法学者らは、イエスのその言葉と、イエスの力と民衆の人気に恐れをなし、イエスを十字架にかけて殺してしまいます。

ところが、そのイエスの十字架による死は、罪からの人類救済という神の大いなる創造のみ業であったのです。

イエスは約2000年前にこの世に来られたが、その第一声は、神の支配(神の国)が到来した、でありました。それまでサタンが支配していたこの地上に神の支配が実現したのです。

だが、サタンが追放されたわけでもないので、今でも悪霊と共にこの地上をさまよっています。サタンは、人間の潜在意識に悪い影響を及ぼし、人間社会のあらゆる罪のもととなっています。

約2000年前にそのような罪の中にある人類を、罪から、死から助け出すためにこの世に神の御子イエスはこられたのです。

そして、人類が持つ罪を贖うために自らを生贄としてささげ、十字架で死に、神は、死に打ち勝ったこと、神の子であることを証するために御子イエスを死から復活させたのです。

そして、イエスは天に昇られた後、復活の御霊、聖霊が助け主としてこの世にこられ、今も人類を罪の中から救い出すために働いておられます。

そう、イエスは復活の聖霊となって全世界にあまねく偏在して、今も一人一人に語りかけておられるのです。

イエスの復活は神様がなされたことですから、このことによりイエスは神の御子であること、同時にイエスが約束されたこと、教えられたことのすべてが真実であり、それらは必ず実現することを証明したことになります。

このことを信じたら、あなたの罪が赦され永遠の命を得られる、と教えているのがキリスト教なのです。

イエスを信じたら、神の霊、聖霊がその人に入り、神との交信が出来るようになるということです。

そして、来世につながる天国がその人の内に実現し、死後の復活と本当の天国に希望が持てるようになるのです。

人間は、この世に肉体をもって生きている限り、サタンの影響を完全には免れませんが、そうすればサタンの影響から守られ少しずつ本来の姿に変えられていくということです。

クリスチャンでもない人でも知っている、最後の審判ですが、神は人間を人間らしくあるために自由意志を与えて創造したのですが、人間はその自由意志を持つゆえに、神への背信、神の戒めに背いてしまったのです。

そのために、この世が終わるときには再び全権を委任されたイエスはこの地上に来られるのですが、そのときに、神は義なるゆえに人間を裁かざるを得なくなりました。

しかし、それまでにできるだけ、できればすべての人間が背信を回復し、罪から救われることを願って、御心を伝えるためにイエスをこの世に送られたのです。

それは、イエスの言葉を信じ神との交流が回復したものは、裁きから免れ復活ののち天国へ招かれますが、あくまでイエスの言葉を信じない者は復活ののち地獄へ送ると言う裁きです。

イエスを知らないで死んだ人は、復活し、その人の律法(良心のことと思います)により、行いに応じて裁きを受けます。(参考聖書個所ローマの信徒への手紙第2章14節以降)

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