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2007年11月24日 (土)

新しいことへの期待

わたしたちの人生は、意識する、しないに関わらず、また、良いことであれ悪いことであれ、大なり小なり変化の連続だといえます。

変化は、徐々に来る場合もあるし、突然来る場合もあります。後から気が付く場合もあります。無常なるこの世で普遍なことなど一つもありません。

聖書の神さまは、この宇宙の、万物の創造主で、愛の神さまで、恵みの神さまです。そして、この世を支配されています。

わたしたちの髪の毛一本まで数えられています。そのようなことを考えていますと、今起こっているこのことは、何か意味があるのだろうか、と起こっていることを一つ一つ意識するようになります。


何事にも意味を見出そうとします。ちょっと期待を込めて。もし、嫌なことが起こっているなら、そのうちきっと良いことがある、と希望を将来に託します。なぜなら、神さまは、この世で起こることで無駄なことは一つもない、すべてを益にすると言われていますから。

こうして考えてみると、人生を受身で歩くよりも、積極的に新しいことに挑戦しながら歩いたほうが、楽しくなると思いませんか。結果はわからないけれども、そうして一生懸命生きていたら神さまが何とかしてくださる。何だかそのように思えてきます。

最初から大きなことを望まなくても、小さなことでも長年続ければ大きな一歩になることがあります。何かをやってみようかな、と思ったら、まずやってみるべきだと思います。やめたくなったらやめればいい。

人生は後悔の連続だといいますが、無駄なことは一つもない、すべてを益にするといわれている神さまがおられるなら、後悔なんてしなくても良いかもしれません。

そういう信仰を持てれば、物事が、望んでいた結果に終らなくても、これで良し、と思える気持ちを持てるかもしれません。

人生は、普通は平々凡々、余り変化はありません。それが日常です。でも、変わるときは、大きく変わる。気がついてみたら、全く予想外の人生を歩んでいた、そんな経験はありませんか。

聖書には、神さまは私たち一人一人の必要をご存知で、また計画を持っておられる、と書いてあります。

人生に何か変化があったら、強い思いが与えられたら、神さまの導きかもしれません。神さまの導きなら、自然に新しいことがはじめられるはずです。

平凡な、平和な日々が続くことも神さまの守りの中にあると思える信仰。

人生の節目節目で、意識していようがいまいが、何か新しいことをされる。全く期待していなかったことをされるという信仰。一人一人のために新しいことを用意されているという信仰。

いろいろな信仰がありますが、期待しなさいと聖書には書いてあります。人生で起こる事に、一つも無駄はないと書いてあります。そうであるなら、やるべきことを、きっと良くなると信じてやるしかないのではないでしょうか。

そして、その結果がどうであれ、これで良かったと思える気持ちが大切ではないでしょうか。

無駄なことだと思ったことが、後で、よく考えるとその無駄があったから今があると思える経験は誰にでもあると思うのですが。

人生の全ての回答は聖書にあるといわれています。聖書は、読まれているかどうかは別ですが、世界のベストセラーです。疲れたとき、不安をもったときに平安を与えてくれます。悲しいときの慰めの言葉もあります。

新しいことは、希望があるが期待と不安が伴います。新しい人間関係、新しい職場、新しい仕事。わが身を振り返っても、その連続でした。逆にいえば、そのようなこともなければ、何と退屈な人生なのでしょう。

きっと、その一つ一つに神さまが関与されているのでしょう。そして、今ある自分に導かれた。今のこの環境にわたしがいるのは、意味があってのことだと思います。

この家族も、この職場も、この知人友人関係もすべて。これを、神さまを知らない人から見れば、縁があってということになるのでしょうか。

ときにわたしは、過去を振り返ると、誰にもいえない、恥ずかしいくらいの罪の数々を思いだします。悔い改めて赦して戴かなくてはと思います。

何が罪か思い浮かばない人は、人をいじめたり、カンニングしたり、レベルの低い学校をバカにしたり、嫉妬したり、親を悲しませたり、ライバルの同僚を蹴落としたり、告げ口したり、このような経験はありませんか、こうしてあげてみれば、誰でも思い浮かぶことが一つや二つはあるはずです。

ただ、そのような罪は、表に出てきた行いの罪です。

神さまが本当に問題とされているのは、人の心の奥に潜む罪なる思いなのです。その罪を自覚でき、悔改めることができたら、きっと神さまも喜ばれると思います。

人生には必ず一つや二つは、危機的状況と思われることに遭遇することがあります。

これはある意味では、自己の新しいことに対する潜在的能力が試されているともいえます。ならば応戦しなければなりません。

逆に、退屈で辟易するような平凡な毎日の繰り返しは、次の新しい局面を開くためのウオーミングアップともいえると思います。

苦しいときでも、新しい局面が必ず来ると信じて、その日その日を一生懸命生きていけば人生何とかなると思います。そうでしょう、人間は、裸で生まれたのだから裸で死んでいく、ただそれだけです。

だからこの世のことは結果よりも過程が大切だと思うのです。自分の将来なんて、本当のところ誰にもわからない。ならば、今を一生懸命生きて結果は神様に委ねればよいと思います。

苦しい時、平和な時は新しい展開に遭遇した時の為の準備のとき。人生どのようなときでも、準備をしておかなかったら、新しい展開とかチャンスが巡ってきても、それを掴むことが出来ません。

そう言う意味では、イエスを信じるのも次ぎの世への準備ともいえます。

困ったときには、必死になって祈れば平安が与えられる。必ず聞いてくださると確信をもって祈る、平安が与えられると信じて祈る。

どのようなときであれ、希望を与えてくださるのが聖書の神さまです。

祈れば実現するかどうかは、そのことが、神さまの御心かどうかで決まります。御心かどうかは分からないけれども、クリスチャンは聞いてくださると信じて祈るのです。

何事も必死になれば道は開けます。どうしょうもなければ祈ればよい。何もしなかったら何も始まらない。人事を尽くして天命を待つ、わたしは、この言葉が好きです。

今日の聖句は、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて、祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。新約聖書フィリピの信徒への手紙4章6節。

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