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2007年11月 9日 (金)

結婚について

男と女の出会いとは、不思議なものです。出会うのも分かれるのも、縁のあるなしで片付けてしまうわたしたちですが、やはりそこには何か神様の摂理のようなものが働いているように思います。

男と女の出会いは、予測が出来ないことの連続です。理屈では説明できない、人の心の不思議さはその中に端的にあらわれています。

男女の出生数にしても、絶妙のバランスが保たれています。女の方が長生きするように出来ているのも、そこに何か意味があるのでしょう。

マルコ福音書10章6節から9節にこのような御言葉があります、「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。


それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

これはイエスの言葉であります。キリスト教における有名な結婚についての聖句です。

離婚禁止がうたわれています。これは大変です。そんなことを守っていたら、不仲になった夫婦は地獄です。

現実の人間の社会と比べてみれば、余りにも浮世離れと思える神様の言葉です。わたしはこういうときはいつでもそのまま受け入れずに、きっと、他にこの言葉の裏に何か真意があるのだろうと考えます。

本当にこの聖句は命令なのだろうか。真意は何処にあるのだろう。離婚禁止にあるのだろうか。

それにしてもおかしい。人間に守れないことをわかりながら神様は命令されるのだろうか。

そうであるなら理屈ぬきで守らねばならないし、何等かの守れることができるための方法も考えておられるはずだと思います。

それに、人間は間違う動物だから、初めから神さまの御心でない人と結婚することもあるでしょうし、たとえ御心であっても離婚してしまうこともあります。

それに、現実は神様の御心を気にしているのは少数派です。大概はチャペルで結婚式をあげても、牧師の司式の言葉の深い意味など理解していない人が殆どでしょう。

この聖句の、「離婚禁止」の定めを考える前に、神様の、夫婦間の秩序の定めを先に考えて見たいと思います。
神様はここで夫婦間の秩序も定めておられる。

先ず一つは、二人は一体ということは、一夫一婦制を前提としておられる。二つ目は、神様の下に夫婦は平等であることも前提とされている。三つ目に、二人が平等で対等であれば夫婦の秩序は保てません。

そこで神様は、女を男の助け手、支え手として造られました(旧約聖書創世記第2章18節「人が1人でいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。

こうして、夫婦の家庭での役目を定められました。

その上で神様は、エフェソの信徒への手紙第5章22節で、「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」。同28節「夫も自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」、とされています。

このように、夫を妻の頭とし、妻は夫に仕えなさい、そして夫には自分の身体のように妻を愛しなさい、と言われています。

そしてこの神秘は偉大であり、と結ばれています。アダムは、エバが助け手として創造されたとき、「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉、これこそ、女と呼ぼう。

まさに男から取られたものだから。こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(旧約聖書創世記第2章23節から25節)、とかかれています。

この結婚の聖句は、創世記で罪が人間に入る前におかれています。だから、結婚の目的が神の創造の秩序(人類の秩序)を保ち継承していくために必要な、重要な手段だからではないでしょうか。

これは、男と女の理想の関係だと思います。結婚生活を神と共に歩むことによる、神の御心に適った結婚の姿ということでしょう。そうすれば、引き離すことができない、祝福された関係に導かれるということだと思います。

父母を離れて、ということは、結婚は父母から独立した生活になるということ。それは、人間的に、社会的に、経済的にも自立した状態をいい、そうしなければ結婚生活が果たしえないという意味ではないでしょうか。

さて、次に離婚禁止」の定めですが、わたしは次のように解釈しました。

「二人は一体となる」「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と断定されるのは、この言葉も恐らく人類の存続と成長を考えた創造の秩序で、創造主である神様の働き、強い意思であると思います。

しかし、神さまの命令ですから非常に重要なことだと思います。

マタイによる福音書第19章11節に離縁禁止についてイエスのこのような言葉があります。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」。

ということは、この言葉が成立するのは、恵まれた者だけということになります。

この「恵まれた者」と訳されている箇所は、ギリシャ語原文では「与えられた者」と同義ということなので、離婚に関するイエスの発言が神様の恩恵においてのみ成立するということになります。

人を男と女とに造られた神様は、「二人が一体となる」ことによって生きるように定められました。

二人を一体にするのは、人間の働きではなく、結婚という制度でもなく、心身全体に働いてくださる神様の働きである、ということになります。

二人は合う者として、助け手として創造されましたから、二人のつながりは人格的つながりと言え、二人は結婚生活により共に人格的に成長して一体となるということではないかと思います。

もちろん、そのためには、あちらを向いていたらダメで、神様に人生をゆだね、神さまと共に歩むことが必要だと思います。

夫婦が艱難にあったとき、神様を信じ、愛ゆえに支えあって生きるのであれば、その重さがなぜか軽く感じられるのは、やはり神様の恵みではないでしょうか。

二人が神様とともに人生を歩むことができたら、そして、離婚しないで生涯を貫けたら、それはすべてを益にして下さる神様の恵みと言えます。

神様が結ばれた縁を赤い糸と言うなら、赤い糸は必ずある。うまく結び合わされば恵みとして感謝しなければならない。くれぐれも、利害とか目の前の感情で相手を決めないようにしたいと思います。

それにしても、余りにも離婚が多いのは、神様が結び合わせられた縁ではなかったのか、それとも人間の心が余りにかたくなで、忍耐が足りないのだろうか。どちらにしても、そこには神様がいなかったのだとい思います。

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