確かなものを掴む
聖書に書いてあることは、真理だろうか?通常はなかなか判断しがたいことであります。このように分からないところ、疑問に思うところがあるからこそ、そこを信仰で補うと言うことになるのだと思います。すべて分かってしまったら、信仰の働く余地は無くなるし人生なんてつまらないものになります。
約2000年前、パレスチナの片隅で生まれたナザレのイエスの教えを、真理だと命を賭けて確信した人がいました。それはイエスの弟子たちであります。
イエスから直接教えを受けた弟子達は、たくさんの奇跡を見ました。弟子達は、イエスを通じて神の栄光に触れ、その教えを信じてイエスの弟子になりました。その教えは、神の支配と神の恵みの時代が到来したということです。
そして、天国へいける、永遠の命を得る道を確保した、と確信した最初の人々となりました。
世の中の出来事は、見える世界の出来事は時間と空間に制約されています。
それは、時が流れればいつか終わる。悲しみも、苦しみも、いつか終わる。だけど、永遠なものは終わらない。だから、終わるものと永遠なものとどちらが大事かというと、永遠なものとなる。
日常は毎日同じことの繰り返し、退屈な日々が続きます。確かに大きな変化は毎日起るわけではありません。そんなことが起ったら、ストレスがたまって生きてはおれません。
しかし、気がつかなくても毎日の生活の中に、変化の芽は確実に育っているといえます。
そして、その芽がある程度まで大きくなったら何かをきっかけに大きく変わる。
2000年前のイエスの弟子も同じでした。漁師がある日、イエスに出会って、おそらく最初は、イエスに働く聖霊の臨在に導かれて、全てを捨ててついて行きたくなるほどの衝撃を受けてイエスについていったのだと思います。
そうして、弟子たちは、イエスから直接教えを受けても、イエスの生前中は、その教えの意味するところがまだはっきり分かっていませんでした。
その弟子たちが、イエスの名により命を賭けてイエスの教えを伝える使徒に変えられたのです。
イエスがこの世に来られたのも、神がモーセを導かれてなされたイスラエル民族の出エジプトからその芽は育まれていました。
このことは今我々が生きている、現在のこの世界にもいえると思います。いつ人類が全滅してもおかしくないし、いつまでこの世界が続くかもわからない。
その芽は、今、もうどこかで生まれているかもしれない。
このように、人生が大きく変わるときは、歴史が大きく変わるときは、突然変わったように思えるけれども、既に何年も前にその兆候が必ずあるはずだということです。
おそらく多くの人は、退屈と思える毎日を、変化あることを期待して送っておられると思います。
もし、その変化が、出会いが、イエスの弟子たちのように己の人生を180度転換させるものならばあなたはどうします。
変化には大きな不安が伴うものですが、その不安をも忘れさせるほどの変わらないもの、確かなものが見つかりその上で人生を送れればどんな人生になるだろうと期待しませんか。
その人生を歩んだのが、イエスを信じた弟子たちであります。イエスは、神の支配と神の恵みの時代が到来したことと次ぎの世があることとを教えました。
そして、イエスの教えを信じたら天国へ行けることを教えました。いずれこの世が終わることも、その時にイエスを信じていなければ裁きがあることも教えました。
弟子たちは、世の中が変わる兆候を掴んで、それは真理かもしれないと思って、イエスの言葉に従ったのです。
イエスが十字架で死にました。弟子はイエスの死で落胆し、イエスの十字架の巻き添えにあうのを恐れて十字架の場から逃げ去り、故郷へ帰って再び漁師に戻りました。
ところが、三日後に予言どおりイエスは弟子たちに復活されました。それからイエスは、「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とい残して天に戻られました。
弟子たちは、その復活のイエスの言葉を聞いて、イスラエルで祈っていました。やがて約束の助けぬしである聖霊が、集まっていた弟子達に降りました。
弟子達は、喜びに満たされ、真理だと思っていたイエスの教えがこのとき確信に変わり、迫害への恐れは無くなり堂々と声を張り上げ伝道を始めました。
イエスの十字架の時は、臆病のため逃げてしまっていた弟子たちが勇気ある伝道者に180度変えられたのです。
弟子たちは、生前のイエスの教えが生き生きと蘇り、そのあまりの素晴らしさを知った喜びの為に、その体験をどうしてもできるだけ多くの人々に知らせたいと思いました。
知らせたくてじっとしておられなくなりました。使命感が生まれました。そして、その教えと弟子たちの信仰告白が書かれ新約聖書が生まれました。
何もしなければ平和に人生を送れたのに、そのような人生を捨てて、迫害にも負けずにその教えに従いました。
そして、弟子から伝えられた、聖書を読んだ人の中からも、イエスの教えが真理だと思う人たちが出てきました。
彼らにもまた、それを伝えようという使命感が芽生えました。
新たな弟子になり、イエスの教えが真理であることと、そこから得られる喜びと平安を命を賭けて伝えました。弟子と同じで人に伝えたくてじっとしていられなくなったのです。
こうして、イエスの教えは、聖書と共に今日まで広がってきました。
もちろん、その人たちは、イエスの教えを真理だと思うよう強制されたわけでもありません。自主的に真理だと思ったのです。洗脳だろうという人もあるでしょうが、洗脳ならそのような営みが2000年も続きません。
イエスは、教えを伝えた人が去っていっても引きとめられませんでした。教えを信じるか信じないかはその人の自由意志に委ねられているからです。
このように多くの人が、人生を、命をかけて信じた教えを誰がまやかしだとか、人生に無益だといえるだろうか。
もし、イエスの教えが、まやかしだとか無益とだという人があれば、この世の出来事で何が真理で、何が有益かを教えて欲しい。
あなたは人類の歴史の中で、今という時代の一人としてどれほどのことを知っていますか、と問いかけて見たい。
このように考えてみると、この約2000年間に多くの人が信じてきた聖書ほど確かなものはないのではなかろうか。
そして、人生を180度変えられた人が数多く起こされました。
その歴史的事実がなくて今のキリスト教はありえません。その歴史が、イエスの教えが、イエスの出来事が真理だということを証明していると思うのです。
もし信じることができなくても、それを知っているだけでも生き方がきっと違ってくると思います。
何か他の教えを受けたとき、それを比較してみる材料になるし、その人の人生観にも有益だと思うのです。聖書を人類の宝と思って人生のライフワークにして見ませんか。
聖書ほど人々の人生を大きく変えた書物はありません。最初、わけがわからなくても読んでいたら、きっと、何かを見つけることができると思います。そうなればしめたものです。聖書は、きっと期待にこたえてくれると思います。
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