良心について
「良心」というのは不思議ですね。なぜ良心というものが人間に備わっているのか、それもどの民族にもわずかの例外を除いて同じものを持っているのかを考えると、なにかそこに人間を創造したものの意思が感じられます。
そうでしょう、人間がアメーバーから進化したものであるなら、良心なんてなくても良いのではないでしょうか。悪心だけでもよいはずです。民族間ばらばらにものであってもよいと思うのです。
両方が備わっているということは、そこに意味があるからと思いませんか。言い方を変えれば、そのために人間社会は良心と悪心が織りなす、混乱する社会になっているといえますが、
人間に自由に選択できる意志が与えられていることから、どちらを選択するかは人間の責任に委ねられているともいえないでしょうか。
聖書を読んでいて思う事は、そこに創造主の意思が埋め込まれている。良心は、神からでたもので、人間関係の秩序を司るに必要(法則として)であるから、とわたしは考えます。
悪心は、サタン(悪魔)とか悪霊から出たものと思います。
良心も悪心も創造主である神からでたものという考え方もありますが、愛である神がいるなら悪魔が、聖霊がいるなら悪霊がいると思うし、
そうであるならば良心は神から、悪心は悪魔からと考えるのが、わたしには納得できるのです。良心があるから悪心があるという考え方です。
人間であれば、だれにでも良心というものがあります。誰にでも備わっているから天地万物の創造者なる神が、人間を内から司る法則として人間に与えてくださったものと思うのです。
多くの人が信じている進化論によっては、良心というものを決して説明できません。
しかし、せっかく神から賜った人間の良心も、育った環境によって、置かれている状況によって、あるいは子供から大人に成長する過程で犯す小さな罪でも数を重ねると、その状態が当たり前のようになり、良心が罪に鈍感になってしまうこともあると思います。
良心が、神から来ているとしたら、良心が鈍感になってしまった人間、あるいは悪心が勝っている人間の良心を回復するのには、良心と共に働く神の力が必要なのではないでしょうか。
ときとして良心は、その場限りで特定の会社とか共同体の利害を代弁するものに過ぎなくなることもあります。
そのような場所では、良心はその自由を真の意味で発揮できません。会社にとって良いことは良心に適っているとは限りません。
最近、猟奇事件、常識では信じられない事件などは、おそらく、サタンとか悪霊が、このような良心の麻痺してしまった人間の潜在意識に影響を及ぼしているのではないでしょうか。
良心の麻痺した人間は、サタン(悪魔)とか悪霊にとって組しやすいものと思います。
サタンとか悪霊は性質の似通った人間の潜在意識に強く影響を及ぼすものと思います。罪を憎んで人を憎まず、という言葉がありますが、犯罪に対しては、そういう心で接することができればと思っています。
ところで良心は、日本語では「良い心」を意味するものとなっていますが、英語や新約聖書の原語のギリシャ語では、「共に」という意味の接頭語と「知る」という意味の語が合わさって出来ているということです。
つまり,「共に知る」という意味を持っている語なのです。共に知るというのは、自分自身ともう一人の存在神が指し示されると共に、その両者の共同作業で善悪の判断がなされることを示唆している語となっているわけです。
つまり、人間の良心が正しく機能できるためには、やはり神を恐れ敬う信仰心が不可欠だということなのです。
神が私たち人間に良心というすばらしい見張り役(番人)を与えられたのです。この番人は、神と共に協力して働き、決して悪いことを見逃したり、大目に見たりしないで正義の神にしたがい、神と共にわれわれに働くのです。
ですから、わたしたちが真の神を知らないとしても、神を意識しなくてもこの良心によってことの善悪を見分けることができるのです。
これは神の与えてくださったすばらしい賜物であり、知恵であり、神の意思だと思うのです。
わたしたちは、何か悪いことを心に思うとか、悪事を働くと良心が強く責められます。実はそれは、神様からの警告だということになります。
この良心が正常に働いていて、その良心の呵責を敏感に感じ、行いを修正する人は幸いです。行いが良心・悪心どちらに添ったものになるかは、自由意志で責任を持ってその人が決めることになります。
今から約3000年前、あのイスラエルのダビデ王も、姦淫の罪と殺人罪を犯してしまいました。姦淫の罪を覆い隠すために、ダビデの忠実な部下であった彼女の夫を戦場の最前線に行かせて、死なせてしまったのです。
彼は、一つの罪を隠すために、さらに罪を犯してしまい、二重に罪を犯しました。
そして、心の中で「よし、これで大丈夫だ!」と完全犯罪を企て、それをやり遂げたつもりで平然とした顔をしていましたが、彼の良心は決して彼を許しませんでした。
下に記した詩篇の一部を読めば分かりますように、神の御手が昼も夜も彼の上にあって、彼は良心の呵責によって苦しめられたのです。
「わたしは黙し続けて、絶え間ないうめきに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。
わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しょう』と。そのときあなたはわたしの罪と過ちを赦して下さいました」(旧約聖書詩篇32編3~5)。
新約聖書には、「キリストにある」という表現がよく登場します。
この意味は、聖書の御言葉を読み解釈する中に聖霊が働き、その解釈を通してささやく良心の声に聞き従うときを、「キリストにある」状態になるということだと聞いています。
具体的には、聖書は神の言葉ですから、聖書の言葉に基礎づけられた良心ということです。良心の自由が誤りなく発揮されるのは聖書の言葉に聞き従う時だといえます。
その上で、良心を問う時に、そのことが自分の内面で本当に納得しているかということを確認することが必要だと思います。
聖霊は、聖書解釈の中に働き、その解釈をつねに御心にそうようにコントロールしている。聖霊の声というか意志を「良心」と呼ぶ。この良心の声が、聖霊の声だということです。
そして、使徒と弟子に対し、イエスは「わたしたちがキリストの御名を信じ、兄弟姉妹互いに愛し合うこと。」「全世界に出て行って造られたすべての者に福音を宣べ伝えること。」
を命令されましたが、この働きの中に、良心が基準として、わたしたちに働くということではないでしょうか。
わたしたちが、日常良心の責めを感じたとき、それを神の声として聞き従わないときは、自分が本当に罪ある者であるということを深く確信するのです。
そして、創造主である神の(良心)に従う必要性を覚えます。良心こそ私たちを常に神のそばにおらせる力となる。
もちろん、その良心を用いられているのはキリストです。聖書に次のような聖句があります。
「たとえ律法(イスラエルの民が神から与えられた約束事)を持たない異邦人(イスラエルの民以外、われわれのこと)も、律法(良心)の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身(自分の良心)が律法なのです。
こうゆう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されている(良心のことをさす)ことを示しています。
彼らの良心もこれを証しており、また心の思いも、互いに責めたり弁明しあって、同じことを示しています」(新約聖書ローマの信徒への手紙第2章14節,15節)。
イスラエルの民には、良心は律法を守るように責めます。
もちろん、いまのわたしたちも日常、悪心(思いの罪)抱くとか、罪(行いの罪)を犯せば、良心はわたしたちを責めます。それは創造主である神から来ている警告だということを忘れないようにしたいと思います。
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