患難を乗り越える力
人生に二度とないような大きな悲しみとか苦しみ、いわゆる患難を乗り越えたら、強くなる、もう怖いものはない、と一般的にいわれます。
しかし、その患難が大きければ大きいほど乗り越えるのは大変でしょう。現実には大きな患難につぶされてしまう人もいます。また、喉もと過ぎれば熱さを忘れる、という諺もあります。
患難は、本人の意志に関係なく、向こうからやってきます。誰でも患難は避けようと思いますが、避けられない時もあります。
個人差はありますが、自力で乗り越えるのが困難な場合も多いと思います。時間が、知恵が、忍耐が、そして周りの人の助けを必要とする場合もあるでしょう。
聖書では、患難は神様の祝福で、それに耐えれば希望があると教えています。イエスは言われる。耐えられないほどの苦しみはない、必ず逃れの道が用意されているといわれています。
患難はその人の人格を成長させるといいます。悲しみとか苦しみで鍛えたその人の人格は、少々のことには動じない穏やかで豊かなものになるでしょう。
同じ悩みを持つ者のことがよく分かり、思いやれます。しかし、これは悲しみや苦しみを乗り越えた者のみに与えられるものです。
逆に悲しみや苦しみを持つ者が、それを乗り越えられずにいるかぎり、わたしなどダメだと思っている限り、何事も始まらない。
人は患難の渦中にあるときは、あるいは患難によって受けた傷がいつまででも尾を引いている場合などは、人のことを思いやれる余裕など生まれません。
考え方はマイナス思考になり、人生を恨むようになることもあります。
アメリカの著述家、ウィル・リューランドは「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか優しくなるかどちらかである」といっています。
自分に与えられた力を悟らされ謙遜を覚えるのも、患難の中にあるときだといわれます。これも神様が人間として一段と成長するために与えてくださった恵みなのでしょう。
この世には、病のため人の保護と憐れみを受けるだけで何も出来ない人もいる。
それでも、神様はその人も必要とされています。あなたは高価で貴い、ともいわれています。この世には、無駄なことはひとつもない、とも言われています。
そうはいっても、現実の人間社会では、そのような人が助けを求めても、誰も相手にしてくれません。
ただ関わるのがいやで無視されることがほとんどです。ここでもきっと神様は、周りの人に隣人愛の実践を試されているのでしょう。
新約聖書ルカによる福音書第10章25節(路上で病の為に困っている人を助けるサマリア人のたとえ話)のような善いサマリア人はそんなにいるものではありません。
もちろん、恵まれた人は、患難を新たな挑戦の、自己が持つ潜在能力の啓発のチャンスと受け止め乗り越えていくでしょう。
そこには希望が生まれます。いや、患難の中に希望を見つけることが出来たから患難を乗り越えることができると言えるのではないでしょうか。
テレビとか路上で、身体に大きな機能障害を持つ人でも、残された機能に希望を託して懸命に生きている人を見ます。一人では生きていけない人は助け合って生きています。
そのような姿を見ると美しいと思うのは、助け合って生きる人間の姿が、神様の御心に適った姿だからと思います。
わたしたちが、この世を生きていく上で、神様の計らいがあることが聖書に書かれています。何ヶ所もありますが、下記にその一部を登載します。
「だから言っておく、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、・・空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず・・倉に収めもしない。
だが、・・養ってくださる。あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。」新約聖書マタイによる福音書6章25節。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」、新約聖書マタイによる福音書6章34節。
あなたたちは、私を信頼して、隣人を愛することに、支えあうことに専念しなさい、あなたたちには明日もどうなるかわからないのに、何をくよくよしているのですか、とり越し苦労は止めなさいといわれています。
明日の仕事はわたしには出来ない。どうしょうかと夜も寝ないで悩んで、会社に行ってみると案外なんということなしに上手くゆくことがよくありますね。
明日のことなどわたしたちにはわかりません。ひょっとしたら命が無いかもしれません。
自己愛は、この世のあらゆる悪を生み出し、人生の苦悩を生み出すといわれています。
人間はひたすら自己の欲求を追求して生きている。この世と人生の悪は、そのような自己愛によって起きる。キリスト教ではいずれも罪にあたります。
自己愛というのは、この世の宝物、つまり地位とか名誉とか財産とか権力とか支配欲とかそうゆうものを追いかけること、自己の欲求を満足させること。
それらの欲を無くせば、そのような思いはなくなるかも知れません。いやそれ以上に、この世の殆どの病以外の患難は解決されるのではないでしょうか。
ところが、自己愛からくる欲望は生身の人間には、完全に捨て切ることは困難です。
こうしていろいろ考えてみますと、患難に合うことは、人生にとって避けることの出来ない、必要不可欠なものなのでしょう。
避けられないものならば、患難に耐える、乗り越える方法を覚えなければなりません。
キリスト教では、欲(いわゆる仏教でいう煩悩ですね)を無くするのに修行といって、肉体をいじめるようなことは求めていませんし、捨てよとも言っていません。
そのような事では、人間の欲など無くせないと教えています。
それは、イエスの御言葉を信じ、罪を悔い改めて生涯をかけて十字架の御業にすがり、あなたの人生のすべてを神様に委ねなさいと教えています。
そうすれば聖霊があなたに入りそれらの苦悩は乗り越えられるといわれています。捨てるのではなくて乗り越えるのです。耐える力を与えてくれるのです。
患難が神様からくるものとすれば、そこに必ず意味があり、患難の向こうには希望があります。神は耐えられないような患難は与えません。
身に降りかかる患難を選択することはできません。しかし、一つ一つのうけとめ方は本人次第だと思います。
ある人はそこに意味を見出し、自分の人生の糧とする人もあります。どのように対処するかは周りの人を含めた私たち次第ではないでしょうか。
最後に新約聖書の言葉を紹介します。新約聖書ローマの信徒への手紙5章4節「患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。
患難を乗り越えるのには、やはり希望をもつことだと思います。
希望は生きる力を与え、患難に耐える力を与えます。この聖句の意味するところは、人間、苦難に遭わなければ、悟れない何かがあるということ。
そして、患難の先には必ず希望があるということ。辛いことはイヤだと不平をこぼさずに、むしろ、私もあなたも、今の試練こそが、私を人間として成長させるために、どうしても必要なものなのだと教えています。
何事が起こっても、患難の先には必ず希望があるということを信じて、プラス思考で乗り越えましょう。
« 信仰について(2) | トップページ | 愛《アガペー》 »
「聖書と人生」カテゴリの記事
- わが人生を振り返る(2013.06.27)
- 人生で道に迷ったら(2013.06.26)
- クリスチャンとして生きる(2011.09.19)
- 何が幸せか(2)(2011.08.04)
- 何が幸せか(1)(2011.08.01)
コメント