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2007年10月11日 (木)

愛《アガペー》

人に、あなたを愛しますということは、その人に、あなたはわたしにとって価値ある存在です、大切な人です、と言っていることになると思います。

愛しますと言われることによって、その人は、自分という存在を、存在する意味がある、価値があると思える。だから嬉しいものです。この喜びは、人間誰もが生まれながらもっている本性だと思います。

そうすれば、その人間は、愛されている自己を肯定することができます。自己の存在を肯定できるということは、自分に関わる他のことがらも肯定できることになと言うことだと思います。


逆に、自己存在を肯定する(価値あるとする)意識がないと、すべての行為、すべての事柄が無価値に感じられ、積極的、意欲的に行動することが出来
なくなると思うのです。

それほど、愛されることは、人間にとって重要なことであると思うのです。

我々は、都会に住んでいても、人々はお互いに無関心です。隣の人との心のつながりなんて全く無いに等しい。会話もあまり交わさない。

一人暮らしで、社会とのつながりが無ければ一日中言葉を発せずに過ぎてしまう。

ひっそりと誰にも知られずに死んでゆく老人の孤独死が最近多いと聞きます。また、援助も無く治療も受けられず、社会の片隅で貧困と病にあえぎながらひっそりと死んでゆく人々もなんと多いことか。

それら、社会から捨てられたといえる人々の心中を思うと、同じ人間として気持ちが暗くなります。このような人々が、自己の存在が価値ある存在、という意識を持つことは難しい。

マザーテレサは、死に逝く人々を自分の隣人として愛された。あなたを愛していますよ、神様も愛されていますよ、といって言葉をかけ、そばにいて手を取ってあげる。これほどすばらしい隣人愛の実践はない。

人間誰しも自分の存在を認めて欲しいという思いをもっています。その思いを積極的にするか、消極的にするかに
よって、我々は意欲的にもなれるし、無意欲的にもなれる。

言い換えれば、我々は、自分の存在に価値があると意識をもてることを心の根底で渇望しつつ生きていると思います。

つまり人に愛されることを望んで生きています。あなたを愛しています、といわれれば、人は嬉しいものである。怒る人はいないと思う。愛は人を活かします。

人に愛しているといわれることにより、生きている、いや生かされていることに感謝が生まれ、何をするにも意欲的になり人生が楽しくなります。生かされていることを賛美できるようになります。

このような経験、誰にでもあると思います。不法に走る子供、自殺を選ぶ人々。その人たちはおそらく、誰にも愛されていない。

誰も自分の存在を認めてくれない、このような自分は生きていても意味がない。そのように、社会から疎外されたと思うことが原因ではないのでしょうか。

人間は社会性を持つ動物です。人間は人格を持つ動物です。そのような人間が、社会から裁断され、人格を無視されたらどうして生きてゆけばよいのでしょうか。死にたくなるのは当たり前です。

聖書は、人間の大切な生き方は、「神を信じて、愛し、全ての人類同胞を心から自分を愛するように愛しなさい」(ルカによる福音書第10章27節)と教えています。 

さて、ここまでは、愛が人間にとって生甲斐であることを書きました。それでは、愛には二つあるということと、その功罪を考えてみます。

一つは、本性的な愛です。人が日常人を愛する場合の愛のことです。いわゆる、ラブです。

ところが、この愛は破れやすく、偽善や嫉妬に満ち、矛盾し、しばしば人間を苦しめ、罪を犯すもととなります。友人、恋人、親子、夫婦と人間的な絆が強くなるほど、愛が破綻した場合の苦しみ、絶望感はまた格別です。

そこで、もう一つの愛、聖書が「アガペー」と呼んでいる愛があります。イエスが身をもって示された、敵対する者も無条件で受け入れる神の愛です。

聖書では、愛《アガペー》は聖霊(神の霊)がもたらすとなっています。愛《アガペー》の愛は、本性的な愛である自己愛とか嫉妬などにより破綻した人間関係を癒す働きがあります。 

このアガペーの愛は、いかなる相手に対しても、いかなる状況においても、忍び、信じ、望み、耐えます。たとえ敵であっても、また、状況がどのように不利であっても、自己を犠牲にして、相手を抱擁し耐えます。

それは人間から出るものではなく、神の霊の働きによって可能にする愛なのです。このようなことは、本性が自己中心的である人間の意志だけで出来るわけがありません。

従って、アガペーの愛がなされるところには神がおられると言うことになります。

このような、アガベーの愛で、この世界が満たされたら、戦争も殺戮もおこりません。

愛《アガペー》は、目立たないけれど、ひそかに、本性的愛で疲れ果てた人間の心を癒やし、人間世界の破たんを支えています。

そのような人がこの人間の歴史の中に、この地球上のどこかにどの時代においても必ずおられるのです。だから、まだまだ人間も捨てたものではないと思うのです。

キリスト教は過去2000年、いろいろ罪を犯してきたと思います。十字架に架けるために捉えられたイエスを、我が身可愛さに三度も知らないといった使徒ペトロのように、何回も過ちを犯してきたと思います。

でもイエスの教えを引き継ぐ者の、その歴史の中に、アガベーの愛が目立たないけれども静かに脈づいているのも事実です。

だからこの2000年、たたかれても、無数の殉教者をだしても、キリスト教は歴史から消え去らずに生き残ってきたのだと思います。

参考聖句、新約聖書コリント信徒への手紙一 13章4節から7節で、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。

ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」

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