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2007年10月21日 (日)

わたしは誰?

聖書には、人間一人ひとりが唯一無二の存在で、顔かたちが違うように、その与えられた賜物も違うから、与えられた賜物を精いっぱい生かしなさいと書いてあります。このように、人間一人ひとりは希少な存在で、宝物なのに、わたしは自分がとても宝物とは思えません。

唯一無二というと、貴重な存在だと思うのですが、誰も自分を、よほどの誇大妄想狂でないかぎりそのように思ってはいません。

なぜなら、それはおそらく世界六十億の人間すべてが唯一無二の存在だから。唯一無二の存在も六十億も集まれば一人ひとりの存在はほとんど目立たなくなる。

それでも、一人ひとりが唯一無二の存在であることには変わりはない。
人間みんなが唯一無二であるから、もっている賜物が違うから、お互い助け合うことが出来る。 


力をあわせることが出来る。お互いを思いやれることが出来る。こうして人間はお互いが必要な存在となり有機的に結びついているといえるのではなかろうか。

人間が1人で生きてはいけないというのはそういう関係だからではなかろうか。
その唯一無二の存在の一人であるわたしという人間は、この世に生まれ気がついたらもうわたしであった。

それ以来この年齢になってもわたしである。

わたしは、考えたり感じたり語ったり行動したりするとき、他者の中にそのわたしが存在するのが認識できたとき、わたしは、そうしているのはわたしだと自覚する。

このわたしを他者は決して経験することはできない。わたしの人生も唯一無二だから。

もし、わたしが死んだ後、気がついたら、わたしだということがあるのだろうか。

聖書によると、この意識、知恵、能力、経験などつまりいまのこのわたしのすべてをもったまま次ぎの世に行くことになっている。

そうだとすると、やはり次ぎの世にいってもわたしはわたしであると言える。

そうすると、次ぎの世のわたしに、どのような人生(?)が待っているかは知らないが、その人生は、この世のわたしのうえに成り立っているわたしだから、この世のわたしのありかたに意味があることになる。

とすれば、今のこのわたしは、大げさに言えば、人類を構成する一人で、他者と有機的に結ばれた存在の一人でもあるから、この世界の存在と同じように、意味と目的をもった一つの貴重な存在であるといえる。

わたしを創造した神が、何の目的もなくわたしを創造するだろうか。わたしには、目的のない創造(わざわざ創る)は考えられない。

それは、どんな人間でもどんな悪人でも同じではなかろうか。この世に生を受けたからには例外はないと思う。

ということは、わたし経験をしている人間一人ひとりは、この事実を大切にすること。また、互いに大切にし合うことは、たとえ憎む相手であっても当然であって、生きていることも大切にすべきであろうかと思う。

わたしを唯一無二の存在として創造した神がいるなら、きっと、そのように望んでおられるのではなかろうか。

創られたものは創られた目的にそって生きることがもっともその人に取ってふさわしい生き方ではなかろうか。

そうでないと、創造主である神は、人間一人ひとりを唯一無二の存在に創りはしないと思う。ただのロボットなら、ただの機械ならすべての人間が同じ個性を持ち、同じ賜物をもち、同じ顔かたちを持って創られてもおかしくはないと思う。

わたしはいずれ死ぬ。死ぬ時がプログラムされているのか、機械が磨耗するように、あるいは壊れてしまうように死んでいくのか、わたしには分からない。聖書には死ぬ時は神様が決められると書いてある。

死は神様の手の内にある。死はこの生の終わりですから、死が創造主である神様の手にうちにあるなら死が生を決定するといえるでしょう。だから死ぬときが意味を持ってくるのではないかと思う。

周りを見回しても、この世にあるもので不要なものは何一つ無いように思える。

だとしたら、生きることに意味があり、意味がある生を死が決定するとなると、きっと死ぬときもその人にとって最善のときが選ばれるのであろうと思う。

次ぎの世を考えると、寂しいというか不安で恐い気持ちもある。それは慣れ親しんだこの世の人とか、今生きている社会との別れからくる淋しさと、未知の世界への不安からだろうか。

ひょっとしたら、次ぎの世は、なんの不安もない平安で愛に満ち足りた世界かもしれない。それを事前に分かる方法が一つだけある。

それは、命をかけて、次ぎの世があることを、そこで幸せになる方法を教えて下さったキリストを信じることだと聖書には書いてある。

そうすれば、来世に希望をもってこの世から分かれることが出来るということである。

わたしは、どこからともなくこの世に来て、「しばらくの間」この世に留まり、どこへともなく去って行く。

わたし個人としてもそうであり、人類全体としてもそうである。人類はどこからともなくこの地球に命を与えられ、何億年か何十億年かは知らないけれども、永遠ではなく、いつかはこの地球そのものと共に消え失せる。

人類も個人と同じく「しばしの間」をこの地球で生きる存在である。

わたしは、「自分の意志」や「自分の決断」によって、個人として行動していると思いこんでいるが、実際は、「自分」は過去から受け継いだ諸々な要素から成り立っていて、他人と切り離された個人としてではなく、生まれ持って引き継いだものから、周囲の環境から絶えず影響されている存在ではなかろうかと思う。

わたくしとは、いわば一つの虚構であって、わたくしと呼んでいるものは、実際には、自分の属するグループなり社会なりが、自分の置かれている場の中で与えてくれる呼び名にすぎないのではなかろうか?

また個人についても、それは、人間関係の中でお互いが個人だと認め合うところに生まれる一つの状況にすぎないのではなかろうか。

そうすると、わたくしとは何だろう。人の意識の中に存在する虚構のようにも思える。だとしたら、わたしという人間は、他者がいるから存在するともいえる。

そのように考えると、先にも書いたように世界六十億の民は有機的に結ばれた一体の虚構の存在かもしれない。

結局人間には、自分は何ものなのか、何のためにここにいるのか、何のために生きているのか何も分かっていないということである。このように、自分という存在の意味がわからないから宗教心が生まれる根拠があると思う。

分かっていれば、宗教心なんて生まれない。分からないから、不安だから人間は、自分を超えた絶対的なものを見出してそこに自分の存在意義を見出そうとするのではなかろうか。

もちろん、有機的な存在をつなぐキーワードは、イエスの掟、「第一の掟は、・・心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコの福音書第12章30節)だと思う。この掟が、上手く機能していないからこの世は修羅場なのだと思う。おじさんのつぶやきです。

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