信仰について(2)
信仰について(2)、を投稿します。なかなか難しい問題なのでいろいろ考えていましたら長くなってしまいました。最後まで読んでいただければ幸いです。
これなど明らかに信仰であり盲信です。科学者の論文を読んでも一般の人は理解できないと思います。キリスト教を信じている人は、決して盲信ではありません。
もし、キリスト教のことを知りたいと思われる方があるなら、謙虚になって、聖書に書かれてあることが本当だと思って、読んでみることだと思います。
わたしなど、興味本位でこの世界に飛び込んで、つかまってしまいましたが。
信仰を持っています、といえば日本では何か変な目で見られることが多いのですが、たとえば、ノーベル賞学者が何か新しい発見を発表すれば、大概の人は分けがわからなくても信じます。それも何の疑いもなく。
聖書の世界に出てくる人間も、疑い深くてか弱いわたしたちと同じ人間です。聖書にはその人たちが、命をかけてイエスの教えを守り抜いた物語がかかれています。
そこには書かれてあることを、否定したくても否定できない不思議な世界があります。可笑しいと思っても現実なのです。
それに、イエスが自分で書いて残されたものは何もありません。すべて弟子が書いたものです。
不思議でしょう。そのような教祖はいません。自分では何も書いたものを残さずに教えの伝道を弟子に委ねられたのです。
イエスが亡くなってから30年以上もたって弟子の手で書かれた新約聖書のイエスの教えを信じてこの2000年間、無数の人が命を、生涯をかけてきました。
そこには、イエスの教えを広めてきた弟子達の背後で働く不思議な力を感じ取ることが出来ないでしょうか。その力をキリスト教では神の霊、聖霊の働きと捉えます。このような凄い宗教が何処にあるのでしょうか。
キリスト教がこの2000年間,たたかれながらも生き残ってきた、大きく成長してきたということは聖書に書いてあることが実現したということです。もちろん、歴史の中に日々の生活での祈りの中に実現してきたということです。
聖書に書いてあることが作文で、祈っても応えられなかったらキリスト教はとっくに歴史の中に消滅しています。2000年という時間はそれを確認するのは十分です。
聖書には目に見えない世界の事が書いてあります。書かれてあることが、嘘だと思っても、それじゃこの世の何が真理ですか、と問われたら答えようがない。
前記したように、目に見える世界が全てではないのですから。
信仰は疑いの中に育まれるという言葉があります。
どういう意味かというと、信じるということは、半信半疑の中で信じるこころは育まれる。疑いなく信じることが出来たら育むということはありません。
最初から疑いなき信仰を持っていたなら、神とイエスの関係、信仰者の理想とする関係といえるのではないでしょうか。
はっきりと目の前に信じる対象がある場合は、目の前のことは現実ですから信じる必要はありません。
2000年前におられたイエスが言われたことだから信じるとなると、これはこの方がいわれたのだから本当なのだろう、ということで信じるしかない。
目の見えないことが書いてあるのを読んでいて、全く疑わないのは普通ではないと思います。しかし、本当かもしれない、という気持ちで読んでいたら、そこに神の霊、聖霊が働き聖書に書いてあることが本当だと信じさせてくれる。
入信するということは、自分の生涯をかけることになるのだから、人生の色々な局面で、信じたり疑ったりの繰り返しだと思います。
信じることに生涯少しの揺らぎもない人はいないと思います。でも決して離れない。それは聖霊が働かれているからかもしれません。
なぜかというと、人間は本来いったん自分が信じたことは、本当は疑うのは嫌だという気持ちがあり、人生の局面での色々な出来事に出会っても信じるという面から見て肯定的に捉えようとするし、信じることえのいろんな人の批判的な意見も否定的に捉えようとするのがつねだからと思います。
だから、あなたはイエスを信じていますか、と問われたら、わたしは、イエスはわたしを捉えて離さない、と答えます。それがわたしの信仰を持つということなのです。
また、信仰を持つということは、イエスの教えに希望をもつということだと思います。その希望は遠くにある小さな光です。目の前で光っているものではありません。
だから、今は疑いだらけでも遠くの希望に向かって歩いていけるのだと思います。信じるとはそう言うことではないでしょうか。
ときには、宗教を持つのに批判的な人もおられますが、宗教というものは人間の深層意識ら出てきている人の生き方の問題だと思います。
だから間違っているといわれても簡単に引き下がれません。頑固かもしれませんが、わたしの人生の何十年を支えてきた考え方を簡単には変えられません。またキリスト教はそれに値する、応えてくれる教えだと思います。
最後に、少し俗っぽい話を書きます。
教会に行っておりますと、牧師が「あなたは信じていますか」「信じなさい」と何度も何度も問われます。
わたしはそういうときには、いつも不思議に思うのです。そのように言われると、信じるための努力を問われているように思うからです。信仰は人間の努力ではないのですね。
聖書によると、信仰は神の賜物だからです。信仰で人間がすべきことは、肯定的に神の言葉(聖書の言葉)を読んだり聞いたりすることだけだと思うのです。
そうすれば、聖霊が神の言葉を解釈する知恵を与え、信じる賜物を与えてくださると思うのです。
もし信仰が努力によるのであれば、信仰の深さ、強さは、一律ではなく、個人個人で成長段階もありますから、当然そこには差が生まれます。
であれば、どれほど努力すれば神様に納得していただけるのか、誰が決めるのでしょうか。誰も、聖職者でもその様なことを決めることはできません。
教会に集っているということは、聖書を読んでいるということは、神の言葉を肯定的に受け取っているということではないでしょうか。それで十分ではないでしょうか。あとは神様にゆだねるべきだと思うのです。
いろいろ信仰について書いてみましたが、人にイエスの言葉を伝えていて思いますに、物事に熱い人、意識をもっている人は救いようがありますが、冷めた人はどうしょうもないですね。
頭から受け付けないのですから。信仰を持つにも、きっと、時期があるのでしょうね。その人にとって、時期でない時にいくら言われても受け入れられるものではないのでしょう。
神は人間に知識を得るための知力とそれを理解するための能力を与えています。信仰を持つということは知識を得て理解してその理解が一定以上に達すると信じることが出来るようになる、と思いませんか。
盲信は執着を生みますが、知識を得て理解した上の信仰は自由を生みます。
内村鑑三の言葉を紹介します。「世に不幸なること多しといえども、信仰と知識が分離するがごときことはない。
信仰は信仰、知識は知識、二者互いに相関せずといいなして、二者共に衰萎し、ついに枯死す。知識の無い信仰は迷信に走り、信仰の無い知識は機械と化す。」
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