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2007年9月14日 (金)

キリスト教の救いと裁き

キリスト教の創造神は、愛の神であり裁きの神でもあります。ここでは、創造神の裁きについて考えてみます。
ヨハネによる福音書第12章47節に、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」

というイエスの言葉があります。またヨハネによる福音書第9章39節には、「わたしがこの世にきたのは、裁くためである。

こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」というイエスの言葉があります。この二つの聖句は矛盾しているようでしていないのです。

地上でイエスを信じないで死んだ人間に対する裁きは、最後の審判でなされることになっています。これは別の投稿で説明します。ここでは、人間がこの世に生きている間の裁きを取り上げます。

人間は生れながら罪を持っているというのが聖書の前提です。人間はエデンの園で、サタンの誘いにのり創造神から離反しました。

その離反がすべての罪の元、人間は本来永遠に生きるべき存在であったのに、その罪の為に命の根源である神様からの霊的エネルギーが得られなくなり、死ぬべき者となりました。

罪に対する報いは霊の死、永遠の死です。その罪から人間を救うためにイエスはこの世にこられ、自らの十字架上の死で過去・現在・未来のすべての人間の罪を贖われました。

罪の内容は、原罪があり、そこから派生する思いの罪・行いの罪があります。

イエスは人間を罪の中から救うためにこの世に来られましたが、救いは無条件ではなかったので、この世の終わりで最後の審判の時に裁きがなされるのです。

裁きには有罪と無罪がありますから、人類全部が救われるとは限らないというのが前提です。

自分は罪など犯したことがない、と言われる方は、静かに自分の心の奥底を見つめてください。

イエスのいわれる罪は思いの罪も入ります。すなわち人に嫉妬したことはありませんか、人に驕りを持ったことはありませんか、心の中で、バカだ、死んでしまえとか言って人を裁いていませんか、人の不幸を喜んだことはありませんか、これはみな罪です。

そのような経験を持ったことのない人は誰もいないはずです。思っているだけならいいのでは、という人もありますが、思いは行いに通じると思いませんか。だから同じことです。

本当に怖いのが、そういう思いがその人の本当の姿に影響を及ぼしていないかと言うことだと思います。

裁きはその人の本当の姿を見て裁かれると思うからです。裁きの時には、肉体がないからそういうことだと思います。

神はイエスの十字架で人間の罪を贖われましたが、天国へ行くのには、裁きが赦されるのには条件を付けられました。

それはこの地上で生きている間に、イエスの教えを信じることです。イエスは地上にいるとき、教えを語り、人間が信じることができるように奇跡を行いました。

イエスは十字架で死に、三日後に復活されてから昇天されましたが、イエスの生前の教えは聖書となり、イエスはその教えを伝道するために助けぬし聖霊をこの世に送り、そうして、御言葉を信じるチャンスはそれから以降の全人類に与えられました。

生前のイエスから直接教えを受けながら、教えを知りながらイエスを拒否した人は、罪から救われません。

イエスはある点まで教えを述べ、それでもダメな人間、つまり、イエスの教を知りながらその教えを拒否する人は突き放します。

イエスを裏切ったユダの場合がそれで、ユダはイエスから直接教を受けていたのにイエスを裏切ったのです。

たとえば、ヨハネによる福音書第13章27節でイエスはユダに対して言いました。「しょうとしていることを、いますぐ、しなさい」・・と突き放します。

この時点から、ユダはもう悔い改めてイエスに従うことは、完全にできなくされた。神の言葉は絶対です。取り消しはできません。

もう一つ、罪の残る人は、イエスの教えの真髄が、見えていないのに見えていると思っている人、見えていないことの自覚がない人も罪が残ります。

教えを悟っていないという自覚があるならば罪はない。罪が残るということは、裁きが有罪だということです。

上記聖句の、「見える」というのは、イエスの言葉を悟って悔い改める可能性が少しでもありその真意を悟れる、ということをさします。

「見えないようになる」というのは、その可能性がゼロということになる。

だからイエスが、「しょうとしていることを、今すぐ、しなさい。」といえばもうそれに従ってやるしかない。悔い改めのチャンスもない。これが裁きだと思います。イエスの言葉は絶対だから。

地上でイエスの言葉を信じた者は、信じた時点でもう裁きはすんでいます。

つまり、天国行きの裁きが済んでいることになる。この場合は、この世の終末になされる裁きの対象外だということです。

聖書では、人はみな、罪びととしてこの世に存在する。

イエスはその罪人を救うためにこの世に来られました。

したがって、人はみな、悔い改めることによって罪を赦される可能性を平等にもっています。

ところが、全員が最後の最後までそうではない(前記した、ヨハネによる福音書第9章39節はそういうことを指すと思います)。

罪の赦しには悔い改めが必要であります。悔い改めには言われたことがわかっていなければならない。

知的に恵まれない人とか幼子はどうなるのか、彼らはイエスの言うことが知的に理解できないはずであります。

イエスはそれでも、罪を赦される道があると明言しています。

それは、「自分はまだ教えが見えていないと、素直に自覚すること」。それは、逆にいえば、イエスの教えに真理があると(霊的に)感じているということになるからです。

イエスの弟子になるとは、「まだ、理解しきれないけれども教えに真理があると信じて付き従い学ぶ者」であります。この場合でも、イエスは最初の段階で罪を赦すといっています。

教えることの意味が知的によくわかって、悔いて、以後行動を改めるということでなくても、赦すといっています。

信頼して、教えを学び続ければ、すでにその当初の段階で罪を赦しているということになります。

イエスの教えに何かがあると感じた段階の心理は、幼子が神の国の話を受け入れた状態と同じ。

大人も出発点では幼子と同じ状態になっています。その時点でもって幼子と同じように罪は赦される(ルカによる福音書第18章16-17節)「子供たちをわたしのところに来させなさい。

妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」。

最後に罪から救われる者を例示してみますと、「信じてバプテスマを受ける者」(マルコによる福音書第16章16節。)

「信じない者は罪に定められる」(マルコによる福音書マルコ16章16節)。

信じてバプテスマを受けない者(信仰を表明しない者)は、「わたしの言葉を聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。・・・」(ヨハネによる福音書第12章47節)。

つまり、信じていて、行ないがイエスの言葉に従っていない人は裁かないということ。このような人も天国には入れます。

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