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2007年9月29日 (土)

信仰について(1)

信仰を持つどういうことなのだろう。もちろん、ここではキリスト教のことを取り上げて考えて見たいと思います。

信じるということはどうゆうことだろうか。わたしはいつもこの疑問を自分に投げかけてきました。

教会につながるきっかけというのは、インターネットのホームページを見て、あるいはトラクトを読んで、クリスチャンの知人に誘われて、心が病んでいる時に何かを求めて、子供の頃教会学校へ行っていた人がちょっと心寂しい時に昔を思い出してなど、そのようなきっかけが多いように思います。

そうして教会に来て、たまたま心打たれる説教を聴き、これは本当かもしれないとか、何だか嬉しくなってきたとか、悩んでいた重荷が軽くなったとか、感じるものがあり、もう少し教会に通ってみよう、と思うのですね。

そして、少しずつ信仰に入っていく。

もちろん途中で来なくなってしまう人が殆どですが、中にはそのまま教会につながってしまう人がいる。どこでそのような違いが出てくるのだろうと思うことがあります。

そこで、今日はあらためて信仰を持つ、信じるとはどういうことかを考えて見たいと思いました。すこし長くなりそうなので二回に分けます。

信じるには、まず理解が必要です。分けもわからないのに信じるのは盲信です。ウエスレーは言いました。「信仰とは、理解して信じる、信じてそれを生きる」、と。

人は教えを理解し、理解した事に信頼感を持って、その信頼感がある一定以上になったときに、すべてが分からなくても、初めて信じることができるのではなかろうか。

信仰とは何だろう。聖書には信仰についてはこのように書いてあります。ヘブル書11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と、もう一つ解らない。

望んでいることとか、まだ見ていない事実とかは、要するにまだ実現していない、現実となっていないもの。それを「既に実現したこととして確信し、確認する」ということか。

キリスト教を信じるということは、具体的には、御言葉(聖書に書いてあるイエスの約束の言葉)の上にたち(それを心に抱き留め)キリストを求め続けていると、イエスの御言葉を信じる信仰が持てるようになる。

それは、そこに神の霊、聖霊の働きがあるからといえます。

信仰は神からくるというともいいます。ということは、人間が信仰を持ちたい、イエスを信じたいと思っても持てるものではない、ということです。

いや、そのように思ったときにはもうその人は信仰を持っているといえるのでしょう。

ある牧師が言われました、「信仰は、はじめは半信半疑でいい、それでも、意識に留めていると、後は神である創造主が時を見て真理だと悟らせてくださいます。

聖書信仰というのは、そういうものなのです。」と。

つまり、信仰とは、生涯をかけて育むもの、言い換えれば、疑いの中に育つものといえます。これはわたしのような未熟な者には救われる思いです。

神である創造主の言葉は現実になります。これは全能の創造神ですから当たり前です。

聖書は、神の霊、聖霊の導きによって書かれたもの、というのが大前提ですから、聖書に記載されていることは、神の言葉であるということになります。だから必ず実現します。

そのことを信じるか信じないかは自由なのですが、聖書の言葉の真理を知るためには、その前提でもって聖書を読むしかない。

そして、その神の言葉が実現したことを歴史の中に日々の生活での祈りの中に確認する。そうして信仰は育まれると思います。

信仰は神からくるといいましたが、決して強制された上で信仰を受け取るものではない。

選択の自由を最大限に与えておいて、いわゆる自由意志を持たせた状態で述べ伝え、考えさせ、当人の決断に任せる方法で受け取るものであると思います。

このように、イエスの言葉を理解し信頼しても、信じてみようと思う決断は必要であります。だから神はイエスの御言葉を伝えるのに、伝道というまことに面倒くさい、人間らしい方法をとられたといえます。

伝道活動は、イエスの言葉を伝えるが、決して信仰の強制はしない。それほど、神は人間の自由意志を尊重されている、というか必要とされているということです。

このような考え方も出来ないだろうか。たとえば、人間はエデンの園において創造主である神に離反して罪を犯しました。

自分の意志で神から離反したのだから自分の意志で神に戻ることは必要と考えます。だから、神を信じるという決心も誰にも強制されずに自分からしなくてはならない。

神は義であるから、そうでないとその人を助けることができない。罪を犯した者は自分から罪を悔い改めなければ神は罪を赦すことは出来ない。

自由意志により、信じてみようと決断し、まことのもの、永遠に変わらないものを期待し、祈りもとめた人に対してのみ、神である創造主の存在は聖霊の働きによりその人の内に認識される。

そして、いったん聖霊がその人の内に入れば、もう聖霊はその人を離さない、ということになります。

イエスを信じて、聖霊がその人に入ると賜物がもらえると聖書に書いてあります。

それは、霊の結ぶ実で、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(新約聖書ガラテヤ信徒への手紙第5章22節)であります。

聖霊というと、胡散臭いと言って避ける人がいますが、聖書は、神と人間との事が書かれた宗教書です。宗教書であれば霊の話は避けられません。

聖霊は目に見えませんが、この世は、目に見える世界が全てではありません。

自分が知らないことのほうが、はるかに多いのですから。

むしろ目に見えない世界の方がことの本質ではないかと思います。聖霊を否定する根拠は何処にもありません。

むしろ、肯定する根拠の方がはるかに多いと思います。信じるか信じないかはその人次第です。

今日の聖句、「わたしをお遣わしになった父(神)が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハネによる福音書第6章44節)。

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