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2007年9月 3日 (月)

無常について

また無常について書きたくなりました。ちょっと違った側面からとらえてみたいと思います。わたしたちは無常の世界に生きている。わたしが今生きているのも無常なるがゆえといえます。

人間の精子は、五億のうち一匹が勝利者。いま生きている人間はその勝利した一匹である。この一匹の生き残りは無数の無常に支えられている。存在とはそう言う無常なものと思います。

人間はこの世に生まれてきても無常からは逃れられない。今生まれた人間の男の平均余命は約79年。

これは同年代の半分の人がなくなった時点が79歳の時となるのでしょうか。今79歳で生きている人は同年代の半分の無常の上に生きていると云うことになります。

一方人生に於いても無常は付きまといます。受験戦争に勝ち学校に入学することは、入学できなかった人の無常のうえのこと。

会社でも同じで、リストラされ退社した人の無常の上にリストラを免れた人がいるといえます。

若い人に自分の意思でフリーターになりたがる人がいます。なぜかと聞くと自由があるからといいます。

若い時の自由は、意味がなくても楽しくて夢もあります。

しかし、40歳も超えてくるとその自由は将来への不安となります。その若者には、それに耐えるだけの勇気はあるのだろうか。

おそらくその若者はそこまで想像すらできないのだと思います。恐らく人生の無常に捉われて社会の片隅に沈んでしまいます。

人が病気になり、再起不能になるのも無常の仕業。無常なることは人間を含めた生物の世界では種族が生存していくための決まりごとで、原因は必要でなく予防は難しいと思います。

人生を生きていく上で、いろいろな無常に運良く生き残れた人もいずれ無情に捉われこの世を去っていく。

誰一人無常から完全に逃げ切ることは出来ません。よくみると、生物の世界は無常の上に成り立っている非常な世界だといえます。

だから人間はこの無常に耐えて受け入れるしかないと云うこと。無常が避けることのできないものならば、しっかり見据えることも必要なのかも知れません。

日本人は古来、無常を受け入れることで無常に耐えてきました。無常というものは生物の世界では自然なもの。その中に哀愁をみて美を見てきました。

そこに憎しみを覚えないのは不思議ですね。定めと分かっているからあきらめているのでしょうか。それともそのように造られているからでしょうか。

人工の無常、これを無常というかどうかは知りませんが、つまり事故とか戦争、殺戮には哀愁とか美はありません。

勝ち組み負け組みということが最近よく言われますが、負け組みになって去っていくのも無常でしょうが、そこには哀愁も美もありません。

このように無数の無常があることによりこの世は新陳代謝が進み世代を超えて生存が保持されているといえます。

そう言う意味で、無常は必要不可欠なもの。人生途上で病で倒れるのも無常のなせる業なのでしょう。きっと、神様が生物の世界に造られた摂理なのでしょう。

日本人が好きなチャンバラ劇にしても、多数の死があるから劇は引き締まり、主役は浮かびます。ライバルが死ぬことに悲しみもあるが、心のどこかで喜んでいる。

人は他者の死を、不幸を喜ぶ心を持っています。持たないで置こうと思っても、無意識の内の持ってしまう。潜在意識のなせること。

キリスト教ではこれを罪といいます。きっと、こうゆうことも無常の摂理と関係があるのでしょう。

独り者の男女が増えたといいます。彼らは共通して、恋人が欲しいが見つからない。

愛する心が弱くなったのでしょうか。愛することに臆病になったのでしょうか。無常ということから見ると、愛する者たちの喜びは必ず別れという悲しみを伴います。

それは哀れを誘います。そこに色々な人の心を打つ物語が生まれます。悲しみを避けたければ愛さなければよい。なぜかわたしはそこに無理があるような気がします。

人類が体制を維持するのに適正な人数を超えると、また世界的に大きな無常が起こるのは必然ではないでしょうか。

たとえば飢饉とか大戦争が、いや疫病であるかもしれませんが、それらが発生し大量の殺戮が始まります。

いつ自分が無常にとらわれても不思議ではないという意味では、生と死はコインの裏表と言えます。

このような言葉に出会いました。「人生に生甲斐はない。みなそれぞれの生き方がそこにあるだけ」。

しかし、わたしは思います。生甲斐を感じるのはその人の心のもち方。同じことをしていても、それに生甲斐を持てる人ともてない人がいる。

無常の世の中を生きていたら、どうせいつかは死んでいくのだから何をしても一緒と考える人がいてもおかしくはありません。

人の迷惑も考えずに、やりたいことをやって生きていくという人もいるでしょう。生甲斐を持って生きることのほうが難しいかも知れません。

でも、思います。そのように単純に割り切るには、この宇宙には分からないことが多すぎます。

この世の真理が分かっていたら、その上で割り切って生きてもよいが、分からないことが多すぎます。だから割り切れないのです。

そして、どのように考えても、この宇宙の背後になにか大いなるものがおられると思えてならないのです。

この宇宙の森羅万象を見ていると、そこには美があり哀愁があり、そして、大いなるものの意志を感じるのです。そうです、この宇宙を造られた創造主である神の存在を感じるのです。

もし、わたしたちが造られたものとしたら、きっと、わたしたちの存在には意味と目的があると思います。

この無常の世界にも意味と目的がある。無常の人生にも生甲斐があるとしたら、きっと、造られた目的にそって生きることによって得られるのではないだろうか。

無常が支配するこの人口でない自然の世界に、日本人は実を意識しました。人間も動植物と同じように造られた意味と目的にそって生きればきっと生甲斐というものがつかめると思うのです。

そうであれば、きっと、創造主は密かに語りかけておられるはずです。じっと、耳を澄ませて聞き取らなければと思います。

何かをしょうと行動する時で心が騒ぐ時はきっと神様の御心に反しているのでしょう。

ことがなる時は、何があってもなります。不思議に障害が取り払われて、ことが成就すると思いませんか。

そのときは神様の御心に適っている時だと思います。

ことがならない時は、どんなにがんばってもならない。それでも無理をしてやれば必ず失敗する。そのときは、神様の御心に反している時で、心は不安でいっぱいです。

人生無理をすればろくなことがないですね。人事を尽くして、なるかならないかは神様に委ねる心境がよいかもしれません。

わたしは「神も仏もあるものか」と叫びたくなる出来事に出会うと神の摂理を深く顧みるようにします。そして自分を慰めています。

摂理と言う言葉を辞書で引くと、1自然界を支配している法則。「自然の―」2 キリスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。

神はこれによって被造物をそれぞれの目標に導く。と書いてあります。キリスト教的に言い換えれば、わたしたちを最善に導く神のご計画といえます。

神は摂理(神の御心、御計画)をもってこの世を支配しておられます。

したがって、この世の出来事のすべて(もちろん、わたしたち一人一人の人生をもです。)を神は事前にご存じで、許されているから起こっている。許されていないことは何事も起こらない。

神は人間を愛しておられる。したがって、今起こっていること、良いことも悪いこともそのご計画を成就するために用いられる。

すなわち、わたしたちの益になるように用いてくださる。わたしたちにとって悪い様には決してなさらない。

だから、わたしたちが人生において体験する(出会いも含めて)すべてに意味があると言えます。

これらのことを確信を持って信じられたら、その人の人生は、何があっても平安と希望に満たされる。となるのではないでしょうか。

信仰とは、神を信じるとはそういうことだと思います。信仰はその人の人生そのものなのですね。

今日の聖句、旧約聖書コヘレトの言葉第3章1節「何事にも時があり、天の下の出来事には定められた時がある。・・神はすべてを時宜に適うように造り・・」  

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