殉教者の信仰
2000年前の原始教会時代から、クリスチャンは数限りなく殉教してきました。そのほとんどが、自らの信仰の正しさに確信を持ってのことだと伝えられています。
それはどういう信仰だったのだろうか。少なくとも、わたしも、一応クリスチャンですが、もしわたしが殉教せざるを得ない立場になったら、できるのだろうか。
分からない、いや多分出来ないと思う。だから、今の我々の信仰とは同じではないはずです。どこがどう違っているのだろうか。
人は心底思いを持った一人のためには死ねる、という言葉があります。信仰の世界以外でも確かに人のために死ぬ人はいるでしょう。
殉教者の気持ちを、俗な考えで推測すると、その場のムードに流されて抜き差しならなくなって殉教する。
殉教するといった手前後へ引けなくなった、いまさら世間に戻ってもろくな生活しか出来ない、そんな世の中で生きるのなら死んだ方がましだ。それとも一時の思い込みだろうか。
俗に考えればこうなるが、いざ自分の命がかかるとそのような理由では死ねるのだろうか。それも十字架死である。辱めと苦しみは並みではない。
わたしなら逃げ出すかも知れない。それともいろいろ理屈をつけて踏絵をするだろうか。
ローマ帝国全盛時代の迫害は、多数のローマ市民の見守る中で、信者は、猛獣に食い殺されたといいます。
そのような迫害を受けているクリスチャンを見ながら、その信仰に、おそらく真理を見て、そこには本当のことがあると思って、イエスを信じて信仰を持った人が、次々と起こされたのも事実と聞きます。
殉教で死んでいくクリスチャンは、イエスの教えに真理を見て、教えに、死後に希望を持ってあえて身を投じました。その顔は平安だったと言います。
もちろん、恐くて破教したクリスチャンもいたでしょうが、迫害は信仰の純化を進めるともいいます。
わたしは、そこに神の霊、聖霊の働きをみたいのです。この世の論理では分からない力が殉教者の心の中に働いているのではなかろうか。そのように考えなければ、理解できません。
イエスを信じていない人(迫害者)が、イエスを信じるがゆえに死に値するという裁きをする。
クリスチャンは、自分たちにはいま人間の裁きが実施されるが、イエスは、必ずこの地上に再び来られて、わたしたちを裁いた人々を裁かれる。
そして、自分たちの殉教が神によって正しいとされ、必ず天国にいける。そう深く確信できた場合、人間は殉教ができるかもしれない。
そうであれば、この世での死罪の裁きなど、一時の肉体の苦痛にすぎない。イエスを信じる者を、そこまで深く確信させる力が聖書には、イエスの御言葉にはあるはずだ。
つまり、殉教者は、死ぬのではなくて、永遠の命を生きるために殺されるほうを選ぶのです。本当の意味で生きるために殺されるのです。
それがキリスト教の根幹だと思います。ローマ帝国の迫害がはじまったときの当時の教会の状況が垣間見られる聖書の個所を見つけましたので、搭載しておきます。聖霊が活発に働いている様が書かれています。
ペトロ第一の手紙第1章6節、8節、9節「・・今しばらくの間、いろいろな試練に悩まなければないかも知れませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、・・あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ち溢れています。
それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
イエスを信じたゆえにもたらされる、魂の救いの確信と、内から溢れる輝かしい歓喜。これが迫害の中にあるキリスト者を励まし苦難に耐えさせました。
ローマ帝国全盛時代に、迫害を受け、殉教で死んでいくクリスチャンがいたが、それを見て、殉教者の数よりもはるかに多くの信仰者が起こされた事実。これはまさに、聖句の中の「はっきり言っておく。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だは、死ねば、多くの実を結ぶ」新約聖書ヨハネによる福音書12章24節。が実現したことになる。
これが聖句の力、福音の力、いや神の霊、聖霊の力ではないでしょうか。多くの信徒や聖書愛読者は、その力が聖書の御言葉の中にあるに違いないと、日々探し求めているのではないでしょうか。
実はわたしもそうなのです。聖書に、イエスの御言葉に何かがあると捜し求めています。
聖書に記載されている言葉が、神の御言葉と確信がもてたら、その人の意識のうちには、万物を創造した神がこの世界には存在するという認識、その創造神が約束されたことは、必ず実行されるという認識を明確にもてるのではなかろうか。
そうすると、神の言葉、つまり、聖書の御言葉に従ったほうが得というか、希望が持てるということになる。
それがなかったら、人間はこの世でのいのちを、ある教えを根拠として、軽視するようなことはしないのではなかろうか。
日本は、信仰の自由が国家権力でもって保証されています。イエスを信じるがゆえに、少々のいじめがあっても殺されることはありません。
だから、殉教しましょうという言葉は、今は絵空事。ただ、かつて信仰者をそうさせたくらいの、信仰を持てたらいいなあ、と考えてみることもありますが、ちょっと恐ろしい気がします。
ひょっとしたら、このようなわたしでも、その時には神の御霊、聖霊が働かれて死ぬのが怖くなくなるかもしれません。取り越し苦労はやめておきましょう。
そこにはどのような世界がまっているのでしょうか。ひょっとしたら、死ぬことなんて怖くなくなるかもしれない。こんな言葉が思い浮かびました。
「イエスの御言葉を信じたら、イエスの教えゆえにこの世を生きるのは少々不自由であるが、イエスの言っていることが本当なら、彼岸では永遠の命があり天国へ行ける。
もし嘘なら、彼岸はなく無である。もし信じなかったら、この世の人生は、イエスの教えに束縛されない自由な人生を送れるが、イエスの言っていることが本当なら、永遠の地獄行きだ。嘘なら、彼岸はなく無である。」。
とすれば、イエスの教えを信じたほうがいいことになる。
どこまでわたしは俗ぽいのでしょうね、ご容赦ください。殉教なんてとてもとてもですね。わたしのような者を、イチクリと言います。
まあ、どちらにしても神様もわたしのような者に究極の信仰を求めてはおられないでしょうがね。
最後に、イエスの言葉と十強者の言葉を紹介します。
マタイによる福音書第10章28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
豊臣秀吉のキリシタン迫害によって十字架刑で処刑された、当時十二歳のルドヴィコ・茨木の最後状況を紹介します。
ひとりの武士がまだ幼い少年を哀れに思い、こう語りかけました。「君がこうして罰を受けるのは、キリスト教を信じているせいだ。
だから信仰を捨てれば許して頂いて上げる。そして、君をわたしの養子に迎えよう」。
するとルドヴィコは、首を振ってこう答えました。「あなたさまがキリシタンになって、私と一緒に天国へ来てくださるといいのですが」。
潔いですね。そして、十字架につけられた状態で、苦しみの極限を味わいながら、聖歌を歌ったということです。信仰を持つということは、人間を恐ろしく強くします。
これも人間が自身にもつ神秘だと思います。
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