家族の崩壊
暑い日が続きます。家の周囲は樹木に囲まれていますので、セミの声がうるさく、でもなつかしく聞こえます。セミの声を聞くと夏がきたとに実感がわきます。今日は、「家族の崩壊」ついて投稿します。
家族というものは、「産み、産まれる」かかわりの中から生じた親と子という絆、そうしたものによって繫がっている血縁集団を基礎とした小規模な共同体の最小単位が、家族である。
同じ家屋に居住する血縁集団に限定して使う場合もあり、現代日本では直系親族を中心とする単家族のことを指す場合もある、と定義つけられている。
私が、家族について書いてみたいと思ったのは、「ネットカフェ難民」の実態を取り上げた新聞記事を読んだからであります。
私は、「ネットカフェ」というのがあるのは知っていましたが、どのように利用されているのかよく分かりませんでした。
もちろん、行ったこともありません。驚きましたね、住む家を持たず、終夜営業のインターネットカフェに寝泊りする若者が多いということです。そして、従来の路上生活者が減少しているということです。
いろいろ疑問が浮かんできました。「ネットカフェ」で寝泊りする若者の家族はどのようになっているのだろう。そのような若者がなぜ現れたのだろう。何をして生活しているのだろう。働いているのだろうかなど。
若者に貧困層が広がっているのは、どういうことかというと、正社員としての定職をもたず、パートとかアルバイトで生活をしているため、フルタイムで働いても生活保護水準以下の生活しか出来ない人々とか、社会に適応できないドロップアップした若者が増えている。
そして、そうゆう人たちを受け入れる家族が崩壊しているという現実。
そうゆう若者は難民化して、「ネットカフェ」で寝泊りをしている。貧富の格差が拡大した現実がここにあります。
バブル崩壊の後始末の中で発生した、企業の淘汰、リストラなどで職を追われた人々がいる。
再就職しても、パートとかアルバイトでもとの収入はとても望めない。最低限の生活を強いられて、家族も失うことになる。これが一度レールから落ちれば二度と這い上がれない日本の社会の現実です。
「ネットカフェ」で寝泊りする若者の実態を調査した結果で分かったことは、貧困の格差と家族のあり方が変わってきたということ。
つまり、親からの虐待や夫からの暴力を理由に帰宅できない若者たち。つまり家族が壊れてしまった結果難民となった若者たち。
もう一つの原因として、刑務所からの満期釈放者の四割以上が帰る場所がない、受け入れる家族がないということです。これでは再犯率が高くなるのは当たり前です。
自律を必要条件とする欧米型社会では、ドロップアップした若者は、ホームレスか犯罪者になるしかないと聞きます。
家族が崩壊して、そういう若者を受け入れられなくなれば、事情は違うが、欧米型になっていくのだろうか。
職を失い、親に捨てられ、家族を失って、帰る場所を失った若者たちがホームレス化してゆく、将来に対する希望も持てず、社会のアウトローとして生きていく。
そして、将来、その人たちが高齢になったときに、社会問題として国民に跳ね返ってくる。あまりに寂しい帰結ではなかろうか。
人を愛することも、人に親切にすることも、自分が所属する家族が無ければ出来るのだろうか。社会の最小単位である家族が壊れてしまっては、経済社会も国家も、また社会の一員としての人の営み、社会の秩序もどうなるのだろうか。
キリスト教は、このような問題についての対処方法を教えているのだろうか、わたしが記憶するところ、たしか旧約聖書の十戒で、「あなたの父母を敬え、・・」とある以外、新約聖書で、信仰によって家族となった神の家族のことと結婚(「離縁してはならない」も含めて)のことが主で、親族、血族の家族のことは特別に取り上げられていないと思います。
もちろん、男女が結婚して離婚もすることなく生涯を送れたら、それは神の祝福だと書かれているので、そこから家族のあり方を推測することも可能です。両親が仲むつまじく平和であれば子供も平安でいられる。
しかし、旧約聖書には、「男は父母と離れて女と結ばれ二人は一体となる」、と書いてあり、これが神の掟で、子供は親から離れて自律するものとして教えられている。
いろいろな事情で自律できない子供のことは、社会から弾き飛ばされた若者のことはどのように考えたらいいのだろうか。
私は、人間は、教育と、教育の一環としての訓練、及び色々な艱難に出会うことによって成長し、自律した大人になるものと思っています。
夫婦が神の祝福のもとに平和であれば家族は安泰で、地域社会とか学校の手を借りて子供を一人前にすることができる、ここらに解決の糸口があるのでしょうか。
どちらにしても、子供の教育だけではなく、社会・経済問題も家族が壊れる、若者の難民を作る大きな原因になっているので問題は深刻で複雑です。
それらの問題は、教育もさることながら、最終的には社会が責任をとることになると思いますので、イエスが命令された愛の掟である、「隣人を自分を愛するように愛しなさい」(新約聖書マルコによる福音書第12章31節)の実践以外ないのではなかろうか。
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