わたしが道
いま過去ログを順次見直しています。加筆するところ、削除するところがありますのでよろしくお願いします。
今回は、ヨハネによる福音書第14章6節を読みます。
今日は凄い言葉を紹介します。キリスト教ここにあり。絶対にほかの宗教と相容れないところです。
各宗教が目的とすることは一緒で、そこにいたる道は色々(いろんな宗教とか教えが)あるという考え方がありますが、そう言う考え方はとんでもないことです。
また、キリスト教は排他的とかよく聞きますがまさにその通りです。それは次の聖句に現れています。
ヨハネの福音書第14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。」
「わたしは道であり」とは、イエスの言葉を信じ、イエスの言葉を(言葉は思いを含んでいる)心に抱き留めれば天国への道が開ける。
「真理であり」とは、真理とは変わらないものをいうから、イエスはわたしが真理といっているから、変わらないものはイエスの言葉ということになる。
イエスはわたしの言葉は滅びることがありません、といわれている。「わたしを通らなければ」は、イエスだけが父に至る唯一の道であることが強調される。ここでいう父とは唯一の創造神のことです。
簡単に言えば、イエスの言葉は真理なのでその言葉を信じることにより、その人間は罪から救われて永遠の命が得られる。この方法しか神のもとに行くことができない。ということ。
そして、立証はイエスの十字架の刑と死からの復活となります。
この聖句は、人生の目的は神を知ること。そして、罪の中に死ぬべき運命にある人間は(本来の永遠の存在であるから)永遠の命を得て本来の姿に戻ることが大切。
これが人生の究極の目的でその他にないという。
また、旧約聖書申命記第5章7節「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」。聖書の神が唯一絶対である。八百万の神なんてとんでもない、といわれています。
わたしも、もし創造神がいるなら唯一絶対だと思います。そうでしょう。造られた存在である人間に取って、創造神はこの世界の真理です。
そして、真理は一つです。複数あっては、真理とはいえません。唯一であれば絶対です。これがキリスト教なのです。キリスト教には妥協はありません。
次に先の聖句についてもう少し考えてみます。天国に行くのに道があるという。その道はどのような道かというと。イエスはそれを「私がその道だ」といいます。
その意義は、イエスは続いて9節で「わたしを見たものは父を見たものだ」といわれます。つまり「父と私は一つだ」ということです。
そして次に、「わたしは父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」といわれます。
さらに10節で、「わたしがあなたがたに言う言葉は・・わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」といわれます。
天国にいたる道、私がその道、私と父は同じ、私と父はそれぞれの中にいる、私の言葉は父の言葉、となります。
よく考えれば凄い言葉です。父である創造神と私は一体だといっておられます。イエスは、それを承知で語っています。
著者ヨハネも、承知で記述しています。このようなことを言える教祖は、人間はいないと思います。
「イエスの言葉」がなぜ鍵になるかというと。
その言葉に働く父である創造神の霊、聖霊が、その人に宿るか否かが、その人の霊が最終的に天国で永遠に住むことが出来るかどうかを決められる、基準になるからです。
つまり、イエスの言葉を信じて、心に抱き留めていれば、その人には聖霊が入り、その人の意識が父である創造神の思いというか、意識に近くなるという考え方です。
もちろん、創造神の意識と一体となったイエスの言葉には、創造神の意識(思い)が込められています。
その言葉に創造神の聖霊が働くことにより、その言葉を信じる人の意識に影響を与えます。信仰が高まればイエスを信じた人間の意識は神の意識に近くなるということです。
そして、最高に近くなって一体になった状態がイエスだということです。
qただし、罪を背負ったままの人間は、いくら聖霊が充満して、その人の意識が創造神の意識と近くなってもこの世では一体とはなれない。
しかし、創造神の意識はその人の意識に影響を与えてその人は聖化される。これがジョン・ウエスレーのいう聖化ということでしょうか。
だから、イエスの言葉は、創造神の言葉ということになります。それが「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。
わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(10節)となります。
だから、イエスを信じ、イエスの語る言葉を内に抱くことにより、父である創造神の言葉を抱いたことになり、そうすると、聖霊がその人に入り、イエスの言葉を常に意識に留めていると、その人の意識は創造神のそれに近づきます。これで永遠に天国で住めることが出来るということです。
それが、天国への道が出来たということです。だから、「道」というのはたとえであって、そのココロは「イエスの言葉」ということです。
キリスト教は言葉の宗教と言われるのはここから来ています。
キリスト教が、唯一であり絶対といいましても、神はなにも信者以外の人を愛されていないのではありません。
このように、キリスト教にも強烈な排他性はありますが、その教えそのものには、排他性はありません。イエスは他の宗教には、排除するよりも、愛を持って対応されたのです。
わたしは父である神の言葉をそのまま伝えている。あなたたちを罪から救うのはわたしだ、わたししかいない。
わたしはあなたたちを何としてでも罪から救いたい。なぜわたしの気持ちがわからないのかといわれています。
罪の中におぼれているわが子を、父が必死になって救い出そうするように、神は人間を救い出そうとされています。本当は、地獄へなんか一人だって送りたくはない、全員を天国へ送りたいと言われています。
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