青少年に思うこと
今週は暑さも峠を越えるということです。もう少しの辛抱、頑張りましょう。
覚醒剤、大麻、麻薬・・・。薬物中毒になって苦しんでる青少年が、日本に200万人。引きこもりが100万人。それに売春の低年齢化と罪意識のない子供たちがいます。
家庭が安らぎの場になっていない青少年がいます。彼等には、落ち着いた居場所がない。だからネット喫茶の常連客に青少年が多いと聞きます。
何かやりたいことを持っている青少年は幸せです。反抗期もそれで乗り越えられるかも知れません。それも家庭とか学校にそれを見つけることが出来れば最高です。
だが、そうゆう機会のない青少年はどうなるのだろう。たくさんいると思います。
そこに、家庭問題、親子断絶、友人関係で傷つくと、我が身の、心の持って行きようがなくなる。
思っていることを親に言いたくないし、言っても無駄だと思うし、事実は別にして本人はそのように思っている。
家に帰りたくない。同じ若者たちのいる夜の街角に行きたい・・・。刹那的、退廃的な世界はなんだか青少年をひきつける魅力があります。
親には照れくさくて言えないこともある。親にいちいち相談する年ごろでもないし、と思う。子供の頃のように親にべったりではなく、誰にでもある少し距離を置きたい気持ち。
相談する相手もなく、むしゃくしゃするので夜の街へ、1人では行く勇気もないし、面白くないので夜の街をよく知っている悪友と出かけたりする。
ところが、そこは悪魔がうようよする夜の街。何もわからず迷い込んだ青少年をエサにして、カネを得ようとする世界。
彼等だって、もとはといえば、同じ傷ついた青少年だったが、害を加える側に取り込まれてしまった者です。
その世界は、最初は面白い、本当に面白い、だけど時間がたつにつれて、むなしくなってくる。
おれは一体ここで何をしているのだろう、と思うようになり、大概の青少年は、家に、学校に帰る。
そして、何事もなかったようにそれなりに青春を謳歌して社会に巣立っていく。遊びで終ればそのような経験も人生の糧になるのでしょう。
しかし、中にはそこに留まる若者もいる。一度若いときの軽はずみな行動をとり、レールを踏み外した青少年は悲惨だと思います。
途中で気がついてもとのレールに乗ろうとしても、この日本の社会は、いったん道を踏み外したそのような青少年を簡単には受け入れてくれるほど優しくはない。
人の助言を得て幸運にも立ち直れる青少年もいるが、そのまま大人になってしまう者も多いと思う。
元に戻ることを失敗した青少年はますます深みにはまっていく。くだらないからよけいにくだらないことをしたがる、そのようにせざるを得ない心境、少しはその気持ち分かりますが・・・。
今の世の中は、余りにも情報が多いから、それも質の悪い情報が多すぎる。物事を判断する力もないときに、あふれるばかりの玉石混合の情報が入ると、人間は不思議なもので、悪い情報が頭に残り、人生こんなものかとバカにしてしまう。
人生も始まってもいないのに、人生が分かったような気になってしまう。そして、質の悪い情報に鈍感になり、無防備になり、深みに入ってしまうようになる。
このようなときに、自分と家族、自分と学校、自分と社会、自分と世界、人間の歴史の中の自分、つまり自分の居場所を知っていれば、青年期は誰でも、理由もなく希望とか夢を持てる年頃だから、その中に希望を持つことが出来るかもしれない。
希望が持てたら、その世界で自分が今やるべきことが何かが、また、そのやるべきことは何も特別なことでなくても良いということも分かってくる。
すると少し安心する。そうすれば、気持ちに余裕ができて、むなしさは癒され、自分がいまやるべきことが見えてきたらしめたものだ。将来を考える余裕が出来てくるかもしれません。
若いときは、人生を語ること、自分の人生観を持つことが大切だと思います。
わたしも、十代の頃は人生論を論じ、人生論を読んだり書いたりするのが好きでした。
もし、信頼できる人生観、世界観があると、それを指針にしていつも物事を考えていくことが出来るから有意義だと思います。
わたしの場合は、武者小路実篤の書物が、人生論がそうでありました。その出会いが、わたしのその後の人格形成に大きな影響を与えました。今思うに、それが聖書であれば・・と。
若いときに聖書を読んでみるといいと思います。聖書を読むと、書いてあることが本当だろうか?と誰もが疑問を持つ。わたしも持ちました。
だが、イエスの弟子たちは、このイエスの教えを本当のことだと確信しました。
聖書は、読むものの世界観・人生観を変えるほどの大きな影響力をもちます。いままで、どれほどの人の人生を変えてきたか想像もできません。
これは、誰が何と言おうが無視できない歴史的事実なのです。
弟子たちは、この人類の歴史の中でイエスの教えを変わらないもの、不変なものとして確信しました。そして、その教えの中で来世があることを確信した最初の人々です。
だから、彼らはイエスの教えを伝えることに命をかけることができたのだと思います。
移り変わるこの世の出来事と、不変な教えとどっちが大事かというと、不変な教えになります。
だから、まず、不変な教えを知り、その次に、移り変わるこの世のことでやるべきことをする。
イエスはそういう生き方を勧めたと思います。
弟子たちは、イエスの教えは本当だ、だから後世に伝えなくてはいけないと強く思ったから、迫害にあっても命をかけてイエスの教えを伝えました。
伝えられた人の中からも、この教えは本当だ、と思う人たちが出ました。
彼らにもまた、弟子と同じようにそれを後世に伝えなくてはと思いました。そして、新たな弟子になりました。
こうして、イエスの教えは、今日まで受け継がれ、広がって、そして、世界人口の約3分の1はクリスチャンになりました。これはまぎれもない歴史的事実なのです。
そして、言えることは、イエスの教えを信じた人々で、その人生を二分された方がなんと多いことか。
イエスを知る前と知った後の人生が180度変わってしまった人がごまんとおられるのも事実です。
このように、人の人生を変えてしまう聖書の力、イエスの言葉、この事実なくして何のキリスト教かと言いたい。
このように、多くの人が信じた聖書を少年期、青年期に知ることは、先に書きました、自分と家族、自分と学校、自分と社会、自分と世界、人間の歴史の中の自分、
つまり自分の居場所を探すのにはもってこいの書物です。青少年の人格形成期に聖書と出会っていれば、健全な人生観を持つことにどれほどの助けになるか知れません。
たとえ信仰を持つことがなくても学んだ聖書の言葉は頭の中に残り生涯にわたりその青少年に良い影響を与えると思います。
もし、親が聖書を学んでいれば、子供を導くときに、どのように答えて良いかわからないことでも聖書の中には必ずその答えがありますから、自信を持って子供を導くことができると思います。
聖書は、少なくともこの2000年間不変でありました。
だから比較対照の出来る材料としては最適だと思います。青少年が聖書を知ることは、誤りなく人生を見るのには不可欠だと思います。
今日の聖句、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」。旧約聖書コヘレトの言葉第12章1節
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