神を知る
神様について考える前に、今から説明する神と誤解が生じたら困りますので、最初に神様の捉え方について記しておきます。
人間は五つの感覚でもって、物的な存在のみを認識することが出来ます。
けれども人間はまた、宗教をもち、目に見えない存在である神を拝しているのですが、その神も国・地域によって違うようで面白いです。神の見方を調べてみたら次のようになりました。
まず無神論(物質主義)ですが、神なんてものはいない、存在するのは物質のみという見解です。
人間の精神活動も、物的な存在である素粒子や原子、分子の作用によって起きているにすぎないという見方です。
次に多神論、神様はいるけれど、色々様々の神がいるという見方です。日本を含む東洋に多いようです。八百万の神もその一つです。
次に汎神論、この世のすべての存在が神だという見方です。インドに多いとのことです。
次に有創造主論、自分以外の万物を造った唯一の神がいる、という見方です。自分以外の「すべて」を造ったというのですから、唯一であるのは当たり前です。
そしてこの神様は、人間と同じように人格(位格)をもち、知性も感情も意志も持つと考えます。
見えない霊的な存在、例えば天使とか悪魔がいるにしてもそれは被造霊(造られた霊)ということです。聖書はこの見解にたっている書物です。
ここでは、創造主である神様(聖書で言う神)が存在することを前提として、神様はどのようなお方であるかを考えてみたいと思います。
神様を認めるとなると、やはり宗教の問題となります。宗教というのは、人間が神様を信仰して、安心とか幸福を得ようとすることだとおもいますから。
さて、いつもの通り、聖書から神様を見る前に、真理というか真実とは何かについて素晴らしい言葉に出会いましたので紹介します。
それは、「博士の愛した数式」というドラマで語られる言葉です。「永遠の真実は目に見えないもの、心で見るもの。心で見れば時間はたたない、真実には時間はない。
目に見えるものは、目に見えないもので支えられている。どちらが真実かと言えば、目に見えないものが真実である。目に見えないものは分からない、分からないものは感じることが大切です。」ということ。
このことを説明するのに、博士は一本直線を引きなさいと言われた。引かれた直線は、ある点からある点までの線、人間の申し合わせでこのようになっているが、本当の直線は左右に無限です。
つまり目に見えないものです。それは心で知るしかない。
つまり、目に見えるものは目に見えないものに支えられている。ということです。正確ではないかもしれませんが、意味はつかめたと思います。
わたしは、物事の真理は、目に見えないものの中にあると思います。なぜなら、不法と不条理に満ちたこの世が真理とはとても思えません。
神様は目に見えません、心で感じる永遠の真実であり存在ではないでしょうか。
それでは神様とはどのようなお方か、という問題を投げかけます。
神様が人類に与えた書物といわれる聖書から、その回答を見出しましょう。
まず神様は、この天地と宇宙の創造者であります。
日本では八百万の神といわれ、森羅万象を神様と呼び、人間の都合で作られた神様、または人が死ねば神様とか仏様になるといわれています。
このように非常に人間的。これは死後の人間の霊を神様と呼んでいるに過ぎないと思います。
聖書の神様は、無から有を創造されます、唯一の方で力を行使されます。神様は被造物でなく創造するかたです。
聖書の神様は、唯一にして絶対です。なぜといわれれば、聖書に書いてあると申し上げるしかありませんが、わたしは、なぜかこの宇宙の創造主がいるなら唯一であると思うし、唯一であるなら絶対であると思います。
複数の神様が、この宇宙を思い思いに造ったとはとても思えません。また、相対的だとも思いません。相対的なら神様ではないと思います。
聖書では、神様は自分の名を、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(旧約聖書出エジプト記第3章14節。)といわれています。名には意味がある。内容がある。
神様は名を通して、自分がどんな存在かを教えようとされたのです。
その神様は、創造されたのではなしに、実在と言える方ということです。「有る」という動詞は、過去であり現在形であり未来形でもあります。
「有って有る者」つまり神様は自ら永遠に存在し、死ぬことなく、無に帰することも無いかたです。
人間は時間の中に存在し、死ぬから有って無い者といえます。神様は万物の中心で、絶対ですから神様の前に対等に立てるものはありません。神様がこの世の全てです。
宇宙は初めがあり終わりもある。神様は初めも終わりもない。神様はこの宇宙を、言葉によって創造し、言葉によって保っておられる。
この宇宙は、ビッグバンで始まったといわれています。それならビッグバンの最初の一撃のエネルギーは何処からきたのか、誰もわからない。
神様を肉眼で見た者はいない。神様は、聖書によれば、キリストによってご自分を示されました。キリストによって具体化されました。
つまり、わたしは・・・ある。この「・・」をキリストによって埋められた。ということです。
使徒パウロの言葉ですが、パウロは神様を知らないという人類の罪に対し、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神様は天から怒りを現されます。
なぜなら、神様について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神様がそれを示されたのです。
世界を造られたときから、目に見えない神様の性質、つまり神様の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神様を知ることができます。
したがって、彼らには弁解の余地はありません。」(新約聖書ローマの信徒への手紙第1章18節)。
このように、人生に於いて、最大の目的は神様を知ることだと聖書は教えています。
さて、もう一歩進んで聖書の世界で神様を信じることについて、このような言葉があります。
「世界を創造しその中で起るすべての出来事を統御する意志が存在することを信じること」といえると思います。
そして、永遠に存在する神様、はじめにおられて万物を創造し完成する方。
この方を知りこの方の意志にしたがって存在するとき、この塵あくたのようなわたしたち人間の存在も、永遠の意味を持つようになる。
このような神様を信じることがなければ、人間は存在の意味を失い、地球上をうごめく虫けらのごとき存在となる。
世界は、それこそ弱肉強食が支配する世界となり修羅場と化す、と思いませんか。
神様は人間を意味目的を持って造られた方です。人間はその造られた目的に沿って生きることにより初めて平安を得るのだと思います。
聖書は、被造物である人間への神様の愛を、父の子に対する愛を喩えに語っています。
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