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2007年7月 1日 (日)

続.劣等感からの解放

続いて、劣等感からの解放、について投稿します。
人間が生きていく上でもつ関係は、神様との関係では、神様が私たちを愛しているかいないかという問題。自分との関係では、自分で自分を受け入れることができるか出来ないかの問題。

他者との関係では、他の人が自分を受け入れてくれるかくれないかの問題。社会との関係では、人生の成功者であると見てもらえるかもらえないかの問題だと思います。

もし、このようなことのすべてが私たちの行いにかかっているなら、人生に於いて重要なことは、四つの問題が要求する行いを、私たちが完璧に行うか、完璧とはいえなくてもそれに近いような行いが出来るかどうかによって決まることになります。

一人一人持って生まれたものが違うのだから、行いでその人の価値を決めるのは不公平ですし、その完璧さの程度もだれが決めるのでしょうか。人間なら相対的ですから不公平になります。

私は現役の頃、よく思ったのですが、部下の仕事の失敗に対して、失敗した仕事についてのみ注意する上司と、部下の人格そのものを否定する上司がいる。

人格を否定された部下は、自己の存在を否定されたと思い、非常に傷付けられ、あとに恨みを残します。

すなわち、仕事である行いを注意しても、行った人の人格は否定してはいけないということでしょうね。

この部下が恨みを持ったのは、仕事の失敗を通して自己の存在を否定されたと思ったからです。存在の否定は、その人の心を深く傷付けることになります。

勿論、そのように思うのは、その上司も部下も自己の存在価値を他者との比較の上においているからだといえるでしょう。人格を否定する上司の態度は、神様がもっとも嫌われる傲慢です。

聖書に書いてある神様の愛は、親が子を愛するように、絶対的な無条件の愛です。神様の愛の下に人間は誰でも、どのような人も平等です。

殺人犯も放蕩息子も真面目な息子も善人も悪人も平等です。また、何があっても絶対的に愛されています。

神様は、もし私がお前を愛していなければ、お前が私から離反してもほっておく。しかし、私は、お前を愛しているから、成長してほしいから、そうはしないと言われます。人生における艱難、苦難は神様が私たちを愛する故と思います。

愛するゆえの罰は、その前提に、愛情に基づく信頼関係が築かれていることが必要だと思います。そのために、神様は私の元に帰ってきなさい、と言われています。

親子関係のように、親は子供がしたことを喜ばないこともある。しかし、それでも神様は私自身を愛し受け入れられている。

新約聖書ヘブライ人への手紙第12章6節「なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。

劣等感からの解放は、自分は創造主である神様に造られたもの、生かされている者で、あるがままに姿で愛されていることを知ること。

だから、たまたま人より優れた素質をもっていても自慢すべきでないことを知ること。神様の下に人間は誰でも平等であるということを知ること。

人間は罪を犯し、失敗するのも当たり前で、罪人を救うためにイエスはこの世に来られたことを知ること。一人一人の顔かたちが違うように、生まれ持った賜物も違います。

人の目で見ると、能力に違いがあるのも、優劣が生じるのも当たり前、それが神様の御心だと知ること。

そのときの価値観でその違いを比較し、仕事とか行いで教育とか注意をするのは別ですが、その人間を裁いてはいけないと思うのです。

人間は罪人で、裁きは相対的であるから人間には正しい裁き方は出来ません。聖書では、裁かれるのは絶対者である神様だけです。

聖書では、どのような人も、神様は愛されている、自分は神様から見て必要で価値ある存在、この世にそれぞれが目的を持って生まれてきました。

神様はあなたを世界中に一人しかないユニークな存在として、他のものと取りかえることのできない大切な存在として造られました。

このような、神様の愛を知れば、一人一人が自分らしく生きることができるのではないでしょうか。きっと神様は周りの状況にゆるぎない平安を持って祝福して下さると思います。

劣等感からの解放は、視点を神様に向けることにあると思うのです。ただし、神様は怠け者を嫌われます。神様は人間一人一人に違った、もちろん生まれもった能力の違いとか障害も含めて賜物を与えておられます。

それはあなたが授かった賜物を現世で精一杯活用しなさいということだと思います。だから自己の賜物を自覚して一生懸命この世を生きることを喜ばれます。

神様は、私はあなたが必要だから創造した。唯一無二の存在です。だからなにも人と比べる必要はありません。あなたはオンリーワンです、といわれていると思います。

そのことを自覚して、私はわたしと思えたら、きっと劣等感から解放されるのではないでしょうか。

己の持つ賜物を怠けて使わなかったときの、負けた悔しさは劣等感といいません。もちろん、五十の賜物をもらって五十の出来であっても、百の賜物をもらって五十の出来の人より神様は喜ばれます。

どんなに大きな不治の病をもっていても、どんなにつらい艱難にあっても、病を治してくださいとか、このような艱難から救ってくださいという祈りよりも、この世の、神様の支配と恵みを信頼して、自分を必要とされている神様がいる、

今のこのような状態も何か意味があってのこと、すべてを益にしてくださる神様を信頼して受け入れ、すべてを御心のままに、という信仰は大切なのではないでしょうか。

そのような信仰をしっかり持てば、きっと、劣等感なんてどこかへ吹っ飛びますよ。

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