人生の無常
中山さん、メール有難うございました。メールをいただき急遽「人生の無常」を投稿したくなりました。よろしければ読んでください。
今年も、もう半年が過ぎ去りました。人生が過ぎ去ることの速さの感じ方は、年齢分の一だとききます。
二十歳は二十分の一、六十歳は六十分の一の速さで人生は過ぎ去ります。体力の衰えはというと、ある本に書かれていましたが、六十歳代は一年ごと、七十歳代は一ケ月ごと、八十歳代になると一日ごとに体力が衰えていく。
精神は、気持ちはいつまででも若いのに肉体は衰えていきます。
わたしも、すでに六十を過ぎましたが、自分では気持ちが若いつもりでも、悲しいことですが、確かに体力は年毎に確実に衰えて行くのを実感せざるを得ません。
加齢とともに、もの忘れ、とくに新しいことが覚えられません。最近、とくに困るのは、普段よく知っている人なのに、その人の名前を思い出せないことが度々あるのです。
それに、計算をしていて、何回か検算をして、よしこれで完璧と思ってももう一度念のためにやり直すと間違っていることがあるのです。自分でも、なぜだか分かりません。
若い時は、体力的に疲れても、一晩休むと翌日はもう疲れも取れてしまったものですが、今は、ひどく疲れると、何日も疲れが取れないことがあるのです。
わたしの老化はさておき、時の中にいる人間の人生のあり方を考えて見たいと思います。時はすべてのものを変えていきます。人間も時の中にいる限り変わっていくものです。日本人はそれを無常と呼んできました。
時の流れ中で一切は移り変り、永遠に変わらないものは何もないという考え方、この無常感は、とくに仏教とともに日本人は深めてきたように思います。
この世の移り変わる様を見ていると、ものの哀れのなかに美を意識するのはわたしだけでしょうか。誰しも哀れの中の美を意識するときがあると思うのです。
信長の辞世の言葉は、「是非に、及ばず」の一言だということです。「光秀お前も裏切り者か」とは言わなかったそうです。
これは光秀の反逆に宿命的なものをみて、栄枯盛衰を繰り返すのは人の世の常、自分の今の地位も宿命なら滅び行くのも宿命とさとったのではないでしょうか。
日本人が、ある行動や言葉に美しさを感じる時、その底流には無常観があると思うのです。そのときを天の時といえばよいのでしょうか。
潔いといえばいえますが、逆にいえば人生の移り変わりを、人間の力ではどうしょうもない天の定めというとらえ方をしてあきらめたのでしょう。だから美しくなくてはいけないのですね。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」。これは鴨長明が書いた随筆「方丈記」の冒頭です。その文章は以下のように続きます。
「よどみに浮かぶ泡は、消えたり生じたりして、ずっととどまることがない。世の中の人も住まいも同様だ。同じ家であっても、昔からずっと住んでいる人は数十人に一人。一方で死に逝く人がおり、一方でまた人が生まれるというのは、水の泡とそっくりだ」。
現世を生きているわたしたちは、何となく、今の状況がずっと続くのではないだろうか、と思い込みがちであります。
ところが、よくよく思いを巡らせてみると、この世界にある一切のものが多かれ少なかれ必ず変化する。100年もすれば今生きている人間も大半はこの世にいないということに気付きます。実感は無いけれども信実です。
わたしたちの体も、老い、病、事故、災害などで死を迎えます。このように物理的な変化もあれば、人の心やその時代の価値観・イデオロギー・文化など、目に見えないものの変化もあります。
これらはすべて時間の中にいるからといえると思います。人間は時間の外に出ることはできないのであって、時間の中にいる限り、すべては移り変わり、生あるものは死に、存在するものは無に帰していく。これが定めです。
聖書にも、人間は無常なるものだということを書いてある箇所があります。たとえば旧約聖書詩篇の九十篇第1節から10節を開いてみますと、
「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。・・朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。・・人生はため息のように消えうせます。
人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いに過ぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」
健やかな人が八十年、この年数は今の日本の平均寿命と大体同じですが、たとえ平均寿命八十才の生命を全うしても、中身は苦労ばかりで、振り返って見れば夢のように飛び去った人生であると述べています。
すぎ去った過去は、夢のまた夢ですね。豊臣秀吉の辞世の句もそのようなことをいっていたと思います。
このようなことばかりを書いていると、お前はそれでもクリスチャンかと言われそうですが、人生が無常であるということを悟ることは決して無益なことではないと思います。
変転極まりない人生の歩みの中にあって、古来人間は変わらないもの、永遠なるものを心のよりどころとして、見つけようとしてきたと思います。
旧約聖書コヘレトの言葉第3章11節」の中で、このように人間ははかないものだけれども、神が「永遠を思う心を人に与えられる」ということも書かれています。
このような思いが与えられているのは、人間だけで、動物には与えられていません。
だから、神を求めるのは、信仰を持つことが出来るのは人間だけです。変わらないものを求める心は、創造主が人間の心に植えつけられのだと思うのです。
人間が被造物ならば無意識のうちに生まれ故郷である創造主を求めるのは当たり前でしょう。
人生が無常なるがゆえにこの世の不条理、不公平も決して永久に続くものではありません。いま挫折を味わっていても、いま屈辱を味わっていても明日はどうなるか誰にもわかりかせん。
わたしは、そうゆうときは、忍耐が試されていると思うことにしています。挫折を味わっているときは孤独ですが、孤独は物事を客観的に見る機会を与えてくれますし、人間を成長させると思っています。
聖書にも書いてあります、「忍耐は練達を練達は希望を生む」と。忍耐は、人生には、きっと必要なことなのだと思います。それは神の御心だと思います。
人間は古来誰に教えられたのでもないのに何らかの方法で神を求めます。これは民族・人種を問わないと思います。
時の流れの中で変転極まりない無常なる世界に対して、その無常を超えた永遠に変わらない方をわたしたちは求めています。
しかし、それがただ人間の考えの中でのことなら、まだそれは観念的な存在に過ぎないと思います。
わたしたちが神の存在を人生において体験するのは、神に触れたときといいますか、神の言葉を聴いて、その言葉は変わり得ないのだということを何かのときに体験し確信するときに初めて、神の存在とその永遠性を知ったと言えるようになるのではないでしょうか。
聖書は、神の存在を体験することを求めていると思います。
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