思い出を糧に
いよいよ梅雨の季節に入りました。一日中パソコンの前に座っていると、疲れます。最近わたしは、ちょっと時間
つぶしに勤めてみるのもいいかな、でも時間がとられるには嫌だし、どうしょうかなと悩んでいます。贅沢ですね。
毎日が日曜日は、素晴らしいのですけれども、なにか物足りないのです。今日は、「思う出を糧に」を投稿します。
人の価値観というものは、相対的であると言われます。
人生で少なからず幻滅させられる体験の一つに、思い出の中にある、かつて味わった、楽しかった頃の若い頃のことをもう一一度あらためて体験しょうとしても不可能だということ。
そこに、誰でもが味わう人生のうら寂しさがあります。
失った時間は、去ってしまった時間は取り戻せません.。人間歳をとれば過去を、若かった頃を思い出すことが多くなります。
わたしも、生まれ育った家を見るために三十年ぶりに故郷に行ったことがありますが、生まれた家はなく、今は空き地、子供の頃友と遊んだ路地はそのまま残っていましたが、周囲の環境は変わり、今歩いてみても何の感情もわきません。
そうですね、もうそこは自分の居場所というか、自分の匂いのない、普通の何処にでもある路地裏でした。何もかもがすっかり変わってしまったことをあらためて思い知らされ、ちょっとした寂しさにおそわれました。
旧友と再会し、かつて愛した人と再会し、若き日の行いを繰り返しても、幸せだった過去を再現しょうと試みてみても、冷めた、退屈な感情におそわれるだけで失望に終ることはよくあることです。
もちろん、あらためてその日から関係を築くこともあるでしょうが、それは新しい出会いと同じだと思います。過去の延長線上では付き合えないと思うのです。
歳を重ねた人の心は、自分では気が付かなくても、若いときとは異なるものを求めている。
若き日の自分を、夢中にさせ、その心を満たすことができたのに、今同じことを繰り返しても再現できないのは、そのときの年齢とか環境とか考え方とか自分が持つすべての価値観が、もちろん友をもですが、当時とすっかり変わってしまったからと言えるのからではなかろうか。
こうしてみると、人間の行動はそのときに求めているもので環境は変わるというということですね。だから人の価値観は相対的であるといえるのでしょう。
自分が求めているものを満たしてくれる環境、そこは、自分が一番なじめる居心地のいい場所、そのような場所を求めて人はさまよっているのでしょう。
ともに故郷を訪れた相手が、かつての友であり恋人であっても、もう心踊ることはない。すべてが変わってしまったのだ。
ここからいえることは、失われた楽園を、再び見出すとしたら、自分自身の内に於いて他にないということ。人の世のはかなさを思い知らされます。故郷は人の心の中にあるもの、といえます。
このように物事を理解すれば、一期一会、その日その時は二度と来ない、今の出会いを大切にしなくてはと、あらためて思いなおします。
恋人同士でも、しばらくの別れのつもりで、半年も会わなければお互いの生活環境が変わってしまい、もうかつての気持ちをとりもどすことは出来ないこともよくあることです。
別れという文字を広辞苑で調べて見ますと、はなれること、いとまごい、離別、訣別、離れて再び会わぬようになること、死に別れ、生き別れ・・・と書いてあります。
フランスに、「別れは小さな死」ということわざがあるということです。人間は不確かな存在。人生は別れと出会い。
別れのときは、たとえそれが一時的と分かっていても、本当に再び会えるのかと、一抹の不安もある。
しばしの別れを告げることもまた苦痛を伴う一つの喪失体験ではなかろうか。そう言う意味では、別れは小さな死ともいえます。
また、ドイツ語では、別れることに「別れを受ける」という意味があると聞きました。別れは一方的に何かを失うことではなく、そこには積極的な意義が存在する、という意味だということです。
それは、別れるときには、相手への愛情が向けられる。その人の価値が見出される。
ほかの場面では口に上ることのないような言葉が、別れるから言える言葉もしばしば聞かれることもあります。
愛する人に別れを告げるとき、私たちは相手の人間性をあらためて深く知るきっかけにもなります。別れにはそういう思いが込められている。ドイツ人らしい捉えかただと思いませんか。
キリスト者が死ぬときの別れには、先に天国へ旅立った、愛する人との再会と永遠の未来への希望が込められており、この希望こそがこの世を旅立つときの苦悩をやわらげてくれる。
もちろん、キリスト者でない日本人が、親しい人が亡くなったときによく言っている、天国で会いましょうという言葉とは少し違って、キリスト者の天国はイエスが地上で約束されたことの成就であり、その約束を信仰により確信を持って捉えている天国です。
よき友を持つことの大切さ、それは人生によき思い出を作ることにつながると思います。よき友は、自らの眠れる可能性を呼び覚ませてくれる。
そこに自分の眠れる能力を見出し、また伸ばしていくこと、ともに喜び、ともに学ぶのは人生における最も素晴らしいことの一つ。
たとえその友と別れるときがきても、よき友との別れは、よき思い出を作り、また新しい出会いに希望を持って歩むことができる。そのとき、失敗も良き思い出となります。
人間は、よき思い出を心に抱き、出会いに希望を持って生きる動物でもあるといえると思います。そして、人格の成長が望めるのでしょう。
嫌な経験は、時間がその思いを忘れさせて、また薄れさせてくれます。楽しい思いでは何時までも人の心を和ませます。
だから嫌な思いでとか失敗は糧になり、新たな将来に挑戦する勇気をもたらせてくれる。人の心は上手く出来ていますね。だから人は生きていくことができる。これも神の摂理でしょうか。
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戻ることなんて出来ないとわかっているのに 20年も前に別れた夫のことが忘れられず 今だに苦しんでいるバカな女です
投稿: 泳げない人魚 | 2007年7月 9日 (月) 02時45分