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2007年6月12日 (火)

永遠への旅人

絶好の釣りの季節となりましたが、余り天気が良すぎても釣れないのですね。食い渋りとか魚がはしゃぎすぎるとかで釣れません。底釣りでもカラツンが増えます。

どなたか対策を教えて下さい。今日は、「永遠への旅人」を投稿します。
 
わたしたちは、何処から来て何処へ行くのでしょうか。聖書では、人間の始まりは、創造主である神様によって造られました。

そして、人間は本来霊的存在で、永遠に生きる存在として造られています。肉体をもった姿はこの世の仮の姿だということです。

人生を旅にたとえることが多いのですが、通常旅に出るときは、わたしたちは計画を立てます。

行き当たりばったりで、旅にでる楽しみもありますが、人生の旅はやはり計画を立てて歩むのが、人生の質にかかわることだから正解ではと思います。

人生の生甲斐や、意義について深く考えながら計画を立てる。計画をたてるポイントは、明確なゴールをもつことだと思います。

人生を考えると言うと、考えても仕方ない、そのような暇は無い、考えても答えが出ないから仕方ない。という答えが返ってきそうですが、人間は考える動物といいます。

太古の昔から人間は人生を考えてきました。分からないことがあると、考えざるを得ない、というのが人間の本質ではないでしょうか。

神様は、永遠を思う心を人間に与えて下さいました。この思いは動物にはない人間特有のものだということです。

人間は初めがあり終わりのない永遠に生きる存在であるから、この永遠を思う思いも当然具わっていて当たり前だといえます。

何となく学校へ行って、就職して、結婚して、子供を産み、何となく定年は来た。

そのときそのときを流されるままに生きる、そのような人生もありますが、まさに酔生夢死の世界です。

それで済むのなら人生は幸せかも知れませんが、人間が人間たる所以は何処にあるのでしょうか。

人生を考えなければ、きっと、信仰を持つ必要もないのでしょうね。自分の存在なんてどうでもいいや、といえるのかな。わたしにはわかりません。

生きることだけで精一杯、人生を考えるなんてとんでもない。そのような人からわたしなどを見ると、答えも出ないことをああでもないこうでもないと考えて、暇だね、変わり者と言われそうです。

いや、事実言われています

そこに宇宙があるから考えるのです。そこに人生があるから考えるのです。そこに聖書があるから読むのです。では回答になりませんか。

この世には人間に理解できない、神秘なことが多すぎます。

たとえば、愛、自由、出会い、苦しみ、存在、誕生、生と死など、これらのことは考えても分からない、分からないから神秘に思える。

神秘なことは避けるのではなく、支配するでもなく、素直な驚き、謙遜、畏敬、開かれた心で接すること。

日本の神道は、神秘なことに対して、まさにこのような心で接しているのではないでしょうか。

わたしは、人間は神秘なこと、分からないことに興味が向くようにできているのだと思うのです。だから西洋科学が発達し、宗教があり、哲学がある。

なにもそのことを専門に考える学者でなくても、一般人でも不思議なことは不思議ですから考えてしまいます。それが自然だと思うのですが、いかがでしょうか。

永遠を思う気持ちは、動物には無い人間にしかないものです。だから人間には科学があり、宗教があり、哲学があるといえます。

運動にも食事にも気をつけるのは、生涯健康で居たいと思うからそうします。生涯健康でいたいのは誰でも同じだと思いましたが、知人に言われました。

健康に気をつけて、食べたいものも食べずに長生きしても仕方ないでしょう、食べたいものを食べて、したいことをして、そのために人生が短くなっても、太く短く生きるのがいいですよ、と言われました。

しかし、もっと現実的に考えて、その人は老いても人に迷惑をかけるような事態にならない自信があるのだろうか。

先のことは人間には何もわからないはずですが。病を持ちながら長い老後を病院で過ごしておられる方も大勢おられます。

生涯健康でいたいと思うのは、生甲斐を持ち続けることに通じると思うのです。

老いて、役に立たなくなれば、人に迷惑をかけます。迷惑な存在になれば、生甲斐をもつどころではなくなります。

本当は誰でも介護されるよりも、年齢にかかわりなく自立した人生を歩みたいものです。

わたしたちは、自分の意志でこの世に生まれてきたわけではありません。

今ここで出会った、あなたもわたしも、いわば人為を超える大いなるもの、創造主である神の力によって生かされているのです。

そうでしょう、この世界は、理解できないことばかりです。人間そのものを見ても、自然界を見ても大いなるものの存在、創造主である神の存在を認めないと理屈が合わないのです。

そのように考えれば、自分に生命を下さった、創造主である神様に対する感謝の念が自然に湧いてきて、神様に、そして周囲の人に対して素直に、ありがとう、と感謝の気持ちを口にだせるかも知れません。

健康でいても病んでいても神様がともにいてくださることを知ることができれば、そこに平安と歓びがあるかもしれません。

わたしの人生も、いよいよ第三の人生に入ることになりました。

人生の旅の段階は、第一の人生は、教育を受けて自立する人生。大人になるための準備期間。言い換えれば親の命令で生きる人生。

第二の人生は、社会人として働く人生。言い換えれば、関係する会社とか組織の命令で生きる人生。第三の人生は、定年退職してからの人生。言い換えれば、自分の命令で生きる人生です。

第三の人生は(現役リタイア後の人生)、平常心、忍耐、聞き上手、寛大さ、希望、思いやり、そういった内面的な価値を発見していく旅になると思います。

主演俳優が、一番懸命に演じるのは、一幕でも二幕でもなく最後の三幕目であると思います。死を認識して積極的に生きる人生です。人格形成の最終段階です。

次の世があることを前提にして、はじめてこの世の生と死に意味がもたらされると思います。人生最大の試練は、死への直面、死を学ぶことは次の世に希望をもつこと。

これは、生きることの尊さを学ぶことでもあると思います。

死を理解してこそ、生きている人間を真に理解できると思います。

これならわかっていただけますね。そうです、人生を考えるということは、生きることを学んでいるようで、死ぬことを学んでいるのです。

もちろん、死と次の世のことは永遠の謎、神秘な面が多いですから、信仰でしかとらえるしか方法はありません。聖書は、次の世を、永遠を考えるための指針を与えてくれます。

死と次の世のことを、信仰によってでも、一応自分なりにとらえることができれば、きっと人生の意味を真に理解できるのではなかろうかと思っています。

そのためには、新約聖書が最もふさわしい書物です。新約聖書は2000年前に書かれた世界最大級のロングセラーです。

その時代のイエスの教えやイエスの行動の記録であるのは勿論、読めば読むほどその深みが分かってくる、永続性を持った神秘な書物です。

聖書を読んで、永遠を考えてみませんか。

最後に、永遠への旅人の最終段階は、わたしが思うにおそらく人間の霊は人格を持ったまま神と合一するのではないかと考えています。

その聖句は、旧約聖書コヘレトの手紙第12章7節「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」

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