フォト
2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 思い出を糧に | トップページ | 劣等感からの解放 »

2007年6月22日 (金)

資本主義の行き着く先

梅雨は、まだまだあけそうにもありません。しばらく投稿文をつくるのに専念します。いまは、新しい相談事もありません。今日は、ちょっと目先が変わって、「資本主義の行き着く先」を投稿します。

朝刊を読んでいて、階層社会という文字が飛び込んできました。ちょっと考えてみようと思いました。人間が造った社会システムには、大きく資本主義社会、社会主義社会、共産主義社会があります。

今のところ、資本主義社会は勝組みで社会主義社会と共産主義社会は負け組みです。資本主義社会が勝組みとなったのは、それは人間の性といえる富と支配慾を最大限に生かせる場であるからと思います。
その人間のもつ性がまた資本主義社会を内部から蝕んでいくことになります。


そして、その社会システムの中に階層社会、階級社会、似て非なる独裁社会もある。
勝組みとなった資本主義社会の行き着く先は、全世界の国々が全て資本主義となり国民の全てがそこそこ満足したとき。

そのときには、恐らく会社と個人の勝ち組は集約されて富の独占体制が確立していることでしょう。
階級社会とは、貴族階級と労働者階級。階層社会とは、これは無数にあります。

金持ちと貧乏人、都会と田舎、正規社員と非正規社員、地元民と移住民、勝組みと負け組み、ネット人間と非ネット人間、グローバル人間と非グローバル人間、と社会を切り刻んでいきます。とりあげたらキリがありません。

問題は、これらの階層社会間の住み分けが出来ていて、お互い干渉しないで、侵さず交わらず、お互いを尊重していたら余り問題は起らず共存できると思います。

ところが、階層社会間の貧富の差が大きくなり、ギクシャクしだすと問題は大きくなってくる。

われわれは、多かれ少なかれその中に組み入れられ、適当に利害を調整しながら毎日を暮らしている。

資本主義社会は、人間の競争心がぶつかり合う場、富と支配の集中を目的とする社会システムであるから、いずれは富と支配の集中が進み、極限に達する。勝組みと負け組みが明確になり富の独占体制が確立する。

そして社会は活力を失っていきます。経済は飽和状態に達します。

階層社会は、殆ど固定するでしょう。その中の人間は、社会の仕組みを壊そうとしない限り、それなりに平和に暮らせるかもしれませんが、社会全体の活力は失われます。

ここまでくれば、人間社会はどうなるのでしょうか。

人間は、古代の昔から、建設と破壊を繰り返してきました。ある意味破壊することによって、経済とか科学が発達してきたといえます。

社会が煮詰まると、人のもつ際限のない抑えられていた欲望が暴発し、他国を支配しょうとする、貧富の差が激しくなり階層社会がギクシャクするから階層社会間で争いがおこる。

そして、戦争という破壊活動と殺戮が起る。小さな破壊活動はいつでも起っていますが、大きな破壊活動も必ず起こると思います。

人間が、営々と築き上げた摩天楼が一気に崩れるときがやがて来るかもしれません。その破壊が、また新しい需要を創出するので、経済に活力が生まれることになるのですが?。歴史とは繰り返すものと言うのは真実かもしれません。

旧約聖書創世記第6章から8章に書いてある、いわゆる「ノアの箱舟」の物語です。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」

そして、「わたしは人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うもの空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」といわれて、

神は全地に四十日四十夜雨を降らせ、わたしが造った全ての生き物を地の面から拭い去ることにした、といわれた、このように再び大洪水を起こして、地球上から人類を一掃されるかもしれません。そのとき、ノアの箱舟に乗れるのは誰でしょうか。

富の慾と支配慾は、神様が一番嫌われるもので、サタンが支配する世界です。旧約聖書をみると、神様は怒りが満ちたときに、人間社会に介入されている。

神様の怒りが大きければ大きいほど、その介入はすさまじい衝撃をもって訪れます。

聖書によると、神様が人間社会に歴史を変えるほどに介入される方法は、天災と戦争が考えられます。

調べてみましたら、聖書では地震の原因として、一つ目は人の罪ゆえに、二つ目はサタンの仕業、三つ目は自然法則のゆえに、四つ目は神様の栄光のゆえにと思います。

天地を揺るがす大災害が起これば、人間の高慢は一気に砕け、なすすべもなくただ茫然自失の状態になるでしょう。それでも人間を滅ぼすのが御心でないのなら、人間の社会が終らないで、また飽くなき建設が始まるのでしょうか。

こうして色々考えるとき、このままでは人間の社会は何処へ行くのだろうか、と考え込んでしまいます。それは誰にも分からない。

おそらく人間の社会を主導している政治家とか資本家にも自分が何処へ向かっているのか答えられないでしょう。神様だけがご存知のこと。

最後に一言、したがって、資本主義社会の限界を克服する方法はキリスト教と言いますか、イエスの教えだと思っています。

わたしは資本主義社会は、罪を生む制度だと思っているのです。その原因は原罪だと思っています。

そのことについて、いずれ詳しく書いてみたいと思っています。

もちろん、原罪を克服しない限り人間の作った制度は全て不完全ですから、社会主義制度も共産主義制度も不完全だと言えます。

« 思い出を糧に | トップページ | 劣等感からの解放 »

聖書と人生」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 資本主義の行き着く先:

« 思い出を糧に | トップページ | 劣等感からの解放 »