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2007年6月29日 (金)

劣等感からの解放

多くの人が程度の差があっても劣等感の故に苦しんでいます。劣等感はなぜ起こるのでしょうか。端的に言えば、それは人と比べるからだと思います。“自分は自分”と思えるなら劣等感を持つこともありません。

ところが現実の私達は、つい人と比べて、“私なんか”となったり、“私だって”と背伸びをしたり、あるいは人をけなしたり、他者と比べて根拠もなく自信を失ったり、自分らしさに自信がもてなくて、すぐに人は自分をどのように思っているのだろうか、と人の目が気になります。

優越感も同じで、相手の自分を見る目に合わせてその時その時で様々な劣等感や優越感を持ってしまいます。心が休まる暇もありません。


自己が他者と比べて人間の価値というか能力が劣っているという考えを持つこと。これは、通常人は、自己を評価する場合、人を見てその人と相対的に評価することから生まれるのでしょう。

これもいたしかたないことで、人間は人との交わりの中でしか生きてはいけない動物で、人格の形成は、他者との交わりの中で、社会とのかかわりの中で形成される。

またそこに自己の存在価値を求めている。つまり、人間は社会的動物であるからだと思います。

自己のよりどころが他者との比較という相対的なものでは、いつその立場が変わるか分からず、人を見て一喜一憂しなければなりません。一時的に優位に立ったとしても心の平安は望めません。

人間は、生まれながら顔かたちが違うように持って生まれた能力も千差万別。そういう意味で、一人一人の人間は唯一無二の存在だと言えます。

もともと、持って生まれたものが違うから、他者と比較し、相対的に物を見ようとするのは避けられません。優越感をもち劣等感をもつのは当たり前です。

劣等感がある時、私達は人を正しく見ることができなくなり、人間関係に様々な問題を引き起こします。

一方で、世の中には劣等感をバネにして、人にバカにされないようにと頑張って事を為し遂げる人もいます。それによって優越感を持ち安心するのですが、それもまたちょっとしたことで、たちまちガタガタと崩れてしまう 。

優越感もそのようなものにしかすぎません。

劣等感が解消されるときは、愛されるときだと思います。愛には人の愛と神様の愛があります。

人にあなたがいてくれるだけで嬉しい、あなたを愛しています、と言ってほめられたら、あなたは私にとって価値ある存在です。

必要な存在です、と言われたことになると思います。これは自己の存在価値が認められたことになり、劣等感は解消されるでしょう。

しかし、人の愛はご存知の通り、これほど不確かなものはなく、ちょっとした相手の言葉の変化でたちまち動揺します。それは、相手の言葉に合わせて自分の存在価値を決めていることから来ると思います。

次に神様の愛ですが、聖書では、神様は人間に、受け入れられたい(ほめられたい)、愛されたいという思いを与えられました。

人間は、それを満たす方法を他者に求めていますが、その他者が人間であるから、優越感を持ったり劣等感を持ったり、一喜一憂して平安がありません。

もし、その他者が変わらない絶対的な存在であれば、何があっても安定した平安をもてると思いませんか。

その方法は、人間を創造された神様のもとに帰るということです。人間の霊魂は、生まれた故郷へ帰ればきっと、安心と安らぎを得られると思うのです。

もちろんこの場合は、比較ではなく子供が親に甘えるように、親の愛の中にとどまれば心に安らぎが得られる、ということでしょう。

人間からの平安は周りの状態に合わせて一喜一憂しますが、神様から頂く平安は、周りがどのような状態であろうが、心は平安なのです。これは大きな違いです。

聖書には、本来なら、受け入れられたい(ほめられたい)、愛されたいという欲求は、神様を知ることによって満たされるものだと書いてあります。

人間は、根源的に持つ、愛されたい、受け入れられたいという欲求を他者に求めて、神様に求めないのは、エデンの園で人間が神様から離反したので、神様が人間と交流できなくなったからだということです。

これが原罪です。聖書には、過去の罪を悔い改めて、イエスの言葉を信じ、心に留めたら、その人に聖霊が内住し、その罪が赦されて神様との交流ができるようになる、と書いてあります。

愛されたい、受け入れられたいという欲求を、自分のやりかたで満たそうとすると、達成への欲求は仕事中毒に、愛情への欲求は、恋愛依存症ということになります。

仕事中毒も、恋愛依存症もすべて行いによって満たされようとしていることになります。神様を知らない人は、自分のやり方、行いで平安を得ようとします。

なお、念のため、自己の存在価値を認めて欲しいという欲求は、自我の主張とは違います。聖書では、自我は得るものではなく砕かれるものなのです。

それは神様を受け入れるためには必要だと言われているのです。だから、イエスは幼子のようにありなさいと言われています。

人格の成長は自我が砕かれ練られて成熟することだと思います。そうなることによって、自己の存在価値を得ることが出来るのだと思います。

自我が砕かれて、萎縮して小さくなることではありません。

次回は、後半として「続、劣等感からの解放」として投稿します。

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