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2007年5月12日 (土)

自殺について

最近自殺する人が多いと聞きます。特に経済的な理由と老後の病が理由とききます。自殺する人の気持ちは、健康人には分からない、これは本当だと思います。

人は、置かれた立場とか経験でしか物事を理解できないと思います。人は、ある程度人と心を共有できても、その人の立場に決して代わることが出来ない。

当たり前のことですが重大なことだと思います。だから今、その人が経験している、悲しみ苦しみは原則的にはその人個人のためにある、といえるのだと思います。

職を失って自殺する、生活苦、病苦、理由は色々あると思いますが死を選ぶほか道が無かったほど行き詰まった状態。

その人が、自分が絶望的な、もう自分の手に負えない、どうにもならない状況にいると感じる、早くそのような状態から逃げたい、その状況が一時的とか我慢すれば好転するというものでもないという心の状態。

本当はそのようなことは余り無いのですが、そのときはそう思える、そうとしか考えられない状態が、この先ずっと続くと思うときに人は自殺するとわたしは考えます。

このようなことも聞きました。自殺する人、自殺を試みる人の殆どは、必ずしも実際に死ぬことそのものを望んでいるわけではなく、ただ、耐え難い心身の苦しみとか孤独、経済的な困窮などから逃れたいだけだということです。

だから、死の淵から救われると、皆一様に感謝すると聞きました。真に望んでいるのは、思いやりの心と、分かり合える相手、友人なのだと言われていました。ここらに自殺予備軍を救う手立てのヒントがあるのでしょうか。

わたしは、専門家ではないので詳しいことは分かりませんが、人間は、このようなときは、辛いことが長く続いたので、正常な判断が出来なくなって、精神が病んでいるときだと思います。

人間の心というものは、長いこと辛いことが続くと疲れてしまって、正常に判断できなくなると思うのです。

その場から逃げ出したくなるのではないでしょうか。脳は許容量をオーバすればパニックを起し、物事を正常に判断できなくなったり、自己防衛のために記憶喪失を起したりするのです。

正常な判断が出来なくなって、物事を悪い方向にしか捉えられなくなる。一つの事に捉われてしまうのですかね。精神状態が正常な状態で、自殺など出来ません。

このようなときに、隣人となる周りの人が、その人の立場にたって話を聞いてあげて、ちょっと考える視点を変えるヒントを与えるだけで本人は救われることもある。

これがキリストのいう「隣人を自分のように愛しなさい」ということでしょうね。

もともと人間は、自殺するようにはつくられていないのですから。やはり自殺は異常な状態です。精神状態が異常な状態では自分を消す思いに歯止めがかからない。

その歯止めと言うのは、内的な歯止めとして、信条、信仰、基本的な人生観や価値観があると思います。外的には、この子のために、この人にはわたしが必要と思って生きる、つまり何かを対象とした歯止め、生甲斐をもつことですね。

歯止めには、信仰による歯止めもありますが,その面から見てみますと、聖書には、あなたを創造した神様がおられることを信じなさい、その創造主である神様はそのような自殺に追い込まれるような状況にある人をも、こよなく愛し働いておられるということが書いてあります。

創造主である神様は、私たちを愛しておられるから、可愛いい子には旅をさせろ、という諺がありますが、創造主である神様は、人間を創造した目的のために訓練される。

辛いとき、悲しいとき、やるせないときは神様から訓練を受けていると理解しなさいと聖書には書いてあります。

勿論訓練ですから、いつまでも続くものではありません。神様はただ人を苦しめなやまそうとはおもっておられない。忍耐を持って耐えておれば必ず救い出す、だから自殺はしてはいけないというのです。

簡単に言えば、人間に命を与えるのも奪うのも創造主である神様の権限、勝手に死んではいけない、耐えられないような艱難は与えないといわれています。逃れの通を備えて置くとも言っておられます。

信仰を持ち、苦難を忍耐すれば、品性、希望が得られると、聖書に書いてあります。品性とは思いが広く、深くて、温かい、三つの要素が必要ですから、自殺する状態には程遠い、自殺すればそのような果実も得られなくなってしまう。

辛い状態を乗り越えてこそ弱っている人を思いやれる人にになれる。これこそ神様が喜ばれることだと思います。

また、人を殺して、自責の念にさいなまれ、社会的に、精神的に追い詰められて自殺する人がいますが、自殺は罪を悔い改めることではない、逃げること。神様は、人間に罪を悔い改めることを望んでおられるのでしょう。

悔い改めとは、神様に赦しを請うことをいいます。それは過去を改めることになるのです。殺人などをおこせばたとえ刑に服しても心は救われません。その心を救うために悔い改めが必要となります。

もちろん、この世の法律を守ることは世の中の秩序を守ることですから刑に服することも必要です。大切なのは自分を抹殺することではなく心を入れ替えて生まれ変わり、あらたな自分を精一杯生かすこと。

時間がかかると思いますが、希望をもつことが必要だと思います。逃げても(自殺ではありません)いいと思います、この世で起ったことはこの世で解決できます。

もし解決出来ないようなことがあるなら、神様に赦しを請えばいいと思います。そうでしょう、彼岸のことは、神様にしか分からないのですから。

くれぐれも、自分は創造主である神様に創られ生かされていることを忘れないことが大切だと思います。慌てなくても死ぬときは神様が決めてくれます。

人間誰でも弱いもの、困ったときは、開き直っても良いと思います。同じ苦しみを持っても、自殺する人としない人がありますが、自殺しない人はきっと心の逃がし方が上手なのでしょうね。

弱い人間は弱いまま、あるがまま(甘えてではありません)で生きることを神様は望んでおられると思います。 

今日の聖句、「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを・・神の愛が私たちに注がれているからです。」新約聖書ローマの信徒への手紙第5章3節4節。

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