心の病と今の世の中
心という生き物は、バランスが必要なようです。心に悩みがあって苦しい思いをしているとき、それを聞いてくれる相手があれば、その人を相手にして、喋るだけ喋れば後は案外すっきりすることがよくあります。
なんでこんなことで悩んでいたのだろうと不思議に思うこともあります。
これなどは、人に悩み事を話すことにより、無意識のうちに心のバランスをとり、心の健康を保っているのでしょうね。
もちろん人によれば、喋ること以外のストレス解消方法、つまりスポーツとか散歩とか何か趣味をするとかを心得ていて、上手に心のバランスをとっている方もあるようです。悩みが軽いうちはこれも有効なようです。
それでは心のバランスが壊れるときとは、どういう場合でしょうか。一つの悩みに捉われてしまったらなかなか新たな発想ができないとき、その悩みを、誰にも喋らないと、または外部から何等かの解決方法が示されないと、心の奥へ奥へと悩みは入っていく。
そして、あるとき抱え切れなくなって心はストレスを抱えきれなくなって、バクハツする。記憶喪失を発症したり、欝になったり、異常行動に走る事がある。完全に心のバランスが崩れた状態です。
いったん、心の闇に捉われてしまうと、そこから脱出するのは大変です。こうなると、その人の人生に深刻な影響をもたらすことになります。
もちろん、人には悩みを抱えることのできる許容量に個人差があるようです。悩み事を人に聞いてもらったからといって、自分の悩み事をだれも解決できないし、悩みが解消するわけではありません。
けれども、心の奥底の悩みを口に出して語るという行為そのものが、気分転換になり、心の重荷を軽くするようです。
ところが、人間は様々な動機から自分を隠そうとするようになります。外に向かって心を閉ざし、もはや言葉をもって心の悩みを語ろうとせず、ひたすら自分の内側に閉じこもろうとします。
これは心という生きものの本性に反する方向の姿勢ですから、これを続けると心はますます病み衰えます。きっと、人の心という生きものは、外に向かって開かれていないと健全に生きていけないようです。
そのための方法の一つとして、人間には言葉が与えられているように思います。
現代は心の病の時代と言われています。
現代の競争社会の中でお互いの信頼関係は失われ、昔のような家族や共同体への所属意識も薄くなり、宗教的な支えも持てなくなっているので、人々は孤立して自分の中に閉じこもり、心を病む傾向が強くなっています。
産経新聞の統計によると、平成17年の自殺者は、3万2552人、中高年が多く、平均年齢が男41歳4ヶ月、女36歳8ヶ月。自殺者の80%が、自殺する前にだれにも相談したことが無いという結果がでていました。
年齢から見ると、働き盛り、経済的な問題が多いと思います。心の病も、社会自体が発症の温床になっているようです。誰にも相談できない社会システムも問題なのでしょう。
現代社会は個人の欲望が渦巻いています。欲望には、プライド、財産、地位、名誉などいろいろあります。
どれも来世には持っていけないものです。
イエスは、これらを捨ててわたしについてきなさいと言われますが、神に献身でもしない限り、今の世の中を生きるには、そのような物はすべて捨てるわけにはいきません。
でも、重荷となるほどにはいらないと思います。捨てるのではなしに、どちらが大切かという程度の問題だと思います。
わたしたちは、困ったときに神様に祈ります。困ったときに助けてください、と祈るのは人間として当たりまえ。そのような祈りを、神様は受け入れてくださるのであろうか。
確かに、イエスは「・・信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(新約聖書マタイによる福音書21章22節)、といわれています。
叶えられるかどうかの問題は、個々の祈りが神様の御心に適った祈りであるかどうかであると思います。
イエスは、父と子で喩えられるように、神様との交わりにおいて完全な方であったので、発せられる言葉がただちに神様の言葉としての力を持ったのです。
普通の人間には、このイエスのような信仰はなかなか持てるものではないと思います。イエスは神の子です。神とみ言葉を共有し、一体であったから、奇跡を起こせたのです。
現代人は心の病が自分の中に閉じこもるところから来ることを知っています。個々の人には心を閉ざすそれぞれの原因があります。
しかし、神様にその悩みを打ち明け、委ねることが出来れば、人生どんなにか楽になるでしょう。何しろ神様は、わたしたちの創造主であり、わたしたち一人一人に計画を持ち、わたしたちの神の毛一本までも数えられているのですから。
悩みは神様に任せておいて、ケセラセラの人生もいいものだと思います。現世でのほとんどの悩みは、聖書の神様を信じることができれば、物事の価値観が180度変わってしまいますので、現世で起こるほとんどの苦しみから逃れることが可能だと思うのです。
今日の聖句、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」新約聖書マタイによる福音書6章34節。
たしかにこの御言葉は、明日の心配が絶えない現実の生活者にとって、慰めに満ちた言葉であります。
これを言い換えれば、「明日のことを心配するな。その日に何が起こるか、お前には分からないからである。あるいはお前は明日生きていないかもしれない。
そうすればお前は自分のいない世界のことを心配していることになる」。なるほどごもっともですね。
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