自分の居場所を見つける
明日からよい天気が続きそうです。今日は、昔の友達から会わないかと、電話がありました。来週にでも食事に行こうかな。そして、四方山話に花を咲かせましょう。さて、今日は、自分の居場所を見つける、です。
わたしは社会人としては少し変わった考えの持ち主らしい。というのは、三年ほど前でしたか、巨大企業のもと役員氏がわたしの経歴を見て、めずらしいな、と一言言われました。
その次に言われたことが、変コツと違うか?です。きっと、そのときの肩書きと年齢と職務内容が釣合わないからでしょうね。
わたしは、若いときから、殆どのサラリーマン誰もがもっている出世欲は、あまりありませんでした。
支店長とか部長とか役員とかになりたいとは思いませんでした。その代わりわたしは、中小金融機関に勤めていましたので、整理淘汰の激しい金融業界で生き抜くために、自分がやりたい仕事といますか、生涯の仕事を26歳頃に見つけていました。
そして、その仕事ではその企業内では一番になろうと思いました。42年の現役生活で、吸収合併、リストラ、破綻、合併を経験しましたが、一生その仕事で食べていくことに成功しました。無事定年を迎え昨年現役を退きました。
このことで、わたしは確信しました。何処にいても自分の居場所を見つける、ということです。わたしは、金融業界における自分の居場所と、若くして運良くか、神様の導きかもしれませんが、巡り合ったのです。だから、生き残れたのです。
だから、世間で言う、所謂肩書きには余り興味がありませんでした。肩書きと言うものは、仕事をしていたら勝手に付いてくるもの、無理に取りにいくものではないという考えでした。
このような考えを持ったのは、仕事は好きだけど人間関係に気を使うのが大の苦手でしたから、支店長にでもなれば、本部に気を使い同僚に気を使い部下に気を使いお客さんに気を使い大変です。
自分はどこにもありません。わたしには到底出来ないという思いがありました。
曽野綾子さんの言葉があります。「ささやかな地点を見つける」です。意味は、成功した人生は、一つは生甲斐の発見であり、もう一つは、自分以外の人間ではなかなか自分の代替が利かないという人生でのささやかな地点を見つけること、ということです。
仕事は、目に付いたところからちょぼちょぼやればいい、未完で終わればいい。神のごとき判断とか、全ての仕事を完璧にやりを得て死ぬなんて人間にはできない、と悟ることですね。とおっしゃっています。
死ぬときを考えて仕事に加減をするな、やるべきことを一生懸命やって、途中で死んでもそれはそれで良いではないか、ということでしょうね。
何がおこっても、自分はこうすればいいと思うけれど、もし、神様がお望みなら、仰せの通りにいたします、そのようになりますようにといえる信仰が欲しい。
神様によって、流される心境。自分で切り開いたと思っていても、その背後には神様の召しと言うものがあると思える信仰。
仕事も、会社も、家庭も与えられたら、まず、そういうところに呼び寄せられたのではないかという視点をもつことは、人生には大切ではなかろうかと思います。
何事にも少しはこだわっても、あとは神様にお任せしたらどうでしょうか。人生少しは、気楽になると思うのですが。
今日の聖句、旧約聖書イザヤ書43章2節、3節「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。」
意味は、大河とはこの世の流れのこと。信仰を持って歩むとき、世の大きな流れにも押し流されずしっかりした人生を歩める。
そして、火の中を歩くとは、人生の思いがけない悲しい出来事を指す。悲しい出来事にあっても、世の流れでなく、神様によって流されていくとき、神様が全てを守り導いてくださる。
そうすれば、自分の場所なんて自然に見つかると思います。
いったん自分の居場所を見つけたら、大きな決断、小さな決断を求められることがあっても、神様に流される信仰を持ち、全てを神に身を委ねて、与えられことを一生懸命やっていればよい、ということではなかろうか。
自己中心、利益優先の世に流されようとしていないか、立ち止まって考えてみることが必要。そんな信仰なら、持ってみたいと思いませんか。ケセラセラ なるようになる、の心境です。
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