人間界の実相
今日は、素晴らしい天気ですが、釣りに行きそびれたので、ブログに登載する文書を作っています。今日の問題は、人間界の実相です。思うままに書きました。またまた老人賛美ですがよろしく。
犯罪を犯して警察に捕まった人も、最近は潔さがないのですね。
反省することはないのでしょうか。犯した犯罪に面と向かわずに逃げているばかりに見えるのです。なんだか、心が暗くなり、人の性が見えるようでむなしくなります。
何十万、何百万という視聴者がテレビを見ておられると思います。
その人たちに、情報を流すのがマスコミの仕事だと分かっていますが、わたしは、その情報を受け止めて自分の中でどのように消化すればよいのか戸惑うのです。
バラエテイ―番組にしましても、最近は、あまり気持よくみられる番組が少なくなってきたと思います。
出演している人々は、社会的には名声も高く、大変な努力をして今の立場を築かれたのでしょうし、その人の発言の影響力も強いのでしょう、つまり社会人としても、人間としてもわたしよりはるかに存在価値をもっている人たちなのでしょう。
その人たちのしていることを、言っていることを素直に喜べないわたしはなんだろうと思う事もあります。たんなるひねくれ者でしょうか。価値観の違いと言ってしまえばそれまでですが、わたしは、そのような有名な人の演技も、ついさめた目で見てしまいます。
所詮、お金とか名声を更に得ることが目的なのだろうなって思ってしまうのです。わたしだって地位も名誉もお金も欲しいが、その欲望には際限がないことも分かっています。
その苦労は徒労に終わることがほとんど、そのために、疲れてしまって、心がすさんでしまうことも知っています。だから、人生の意味ってなんだろうと、すぐに思ってしまうのです。
お金とか名声は、泡のようなもので妬みのもとになります。世の非難(利害関係から生じる)や批判は妬みから発生します。この妬みを超越した人間はほとんどいないと思います。
聖書に出てくるサタンはこの妬みにつけ込み人間を悪に導きます。人間をコントロールするには、妬みにつけ込むのが一番なのでしょうね。これが聖書の言う人間の罪の本質である自己中心性なのでしょう。
人は自分の利益に益すると思えばその人をほめそやし、利に反すると思えばその人を悪く言います。これなど今までわたしが歩いてきた人生そのものです。おそらくこれが人間界の実相なのでしょう。
聖書は、物の善し悪しの判断を神の裁量に委ねなさい、と言っています。それはどうして知るのかといえば、聖書を祈りながら読みなさい、そして、聖霊の助けを得てそこに書いてある御言葉から判断しなさいということです。
聖書は、神の言葉ですから書いてあることは絶対で、普遍です。だからゆるぎない判断ができるということです。
これが、妬みの外に立つ秘訣となる、ということです。祈りながら読み、得られた判断を実行する時に、心が平安であればその判断は神の御心といえるのでしょう。
御心でなければそれを実行しょうとすれば心騒ぐものです。
なお、クリスチャンによっては、神が祈りに応えられる声が聞こえたという人もいます。神様は祈る人に合った方法でその人を導かれるのでしょう。
これはクリスチャンが実践しているものの善し悪しを判断する方法ですが、クリスチャンでも、現世を生きている人間ですから、目の前のことに、目の前の利害に捉われて、なかなか正確な神の御心に適った判断は難しいのが事実です。人間の願いが神の御心と違うのは良くあることですが、それでも「願い求めれば叶えられる」ということを信じて祈ります。
余りにも聖書の教えからかけ離れた人生を走ってきたわたしも、60歳も過ぎて、現役をリタイアすれば、物事をある程度冷静に客観的に見ることができるようになります。
これからは聖書を研究することに重点を移して生きなさいと言われれば応えられる環境が与えられているのだと思います。
神様は今のわたしに、世の出来事に一喜一憂せずに、聖書から何が真理かを学びなさいと言われているような気がするのです。
このような年齢まで生かせて下さって、聖書を学ぶチャンスを下さった神様に感謝しなくてはと思います。これが、これから迎える老境に花を添えてくれるようになれば幸いです。
60歳も過ぎれば、結婚や就職、家庭のこと、育児や教育のこと、それに職業の問題など、殆どの人はこれらのことからある程度解放されます。
そのように思えば、老境を迎えるのも悪くはないものです。時間はたっぷりありますから、いやたっぷりあると思っていても、時間とはあってないもの。
明日の命さえままならない人間ですから明日のことは分かりません。そのように考えれば、その日その日を大切にしなければと思います。
朝目が覚めたら、新しい一日を与えられたことに感謝し、生かされていることを喜んで、平安にその日一日を送ることができたら幸いです。
ただ、人間は、世と共に生きるから人間なのですから、余り内にこもって世捨て人にならないように気をつけなければと思います。
このようなわたしも、神の作品の一つです。わたしという神の作品を完成させるために神は何を望んでおられるのでしょうか。
イエスと出会うのが遅かったけれども、きっと出会った時が最善なのでしょう。妬みが渦巻くこの世で、神がわたしに予定されている仕事を全うさせてくださるように祈りたいと思います。
それにしても、生身の人間の妬みが渦巻く中でのものの善し悪しの判断は、なかなか難しいものがあります。どうすればよいかは分かっても、持って生まれた性ゆえに、なかなかそのように出来ないのも人間です。
人の弱さをそのままの姿で受け入れてくださるのがキリストの神です。
何十万、何百万という視聴者がテレビを見ておられると思います。
その人たちに、情報を流すのがマスコミの仕事だと分かっていますが、わたしは、その情報を受け止めて自分の中でどのように消化すればよいのか戸惑うのです。
バラエテイ―番組にしましても、最近は、あまり気持よくみられる番組が少なくなってきたと思います。
出演している人々は、社会的には名声も高く、大変な努力をして今の立場を築かれたのでしょうし、その人の発言の影響力も強いのでしょう、つまり社会人としても、人間としてもわたしよりはるかに存在価値をもっている人たちなのでしょう。
その人たちのしていることを、言っていることを素直に喜べないわたしはなんだろうと思う事もあります。たんなるひねくれ者でしょうか。価値観の違いと言ってしまえばそれまでですが、わたしは、そのような有名な人の演技も、ついさめた目で見てしまいます。
所詮、お金とか名声を更に得ることが目的なのだろうなって思ってしまうのです。わたしだって地位も名誉もお金も欲しいが、その欲望には際限がないことも分かっています。
その苦労は徒労に終わることがほとんど、そのために、疲れてしまって、心がすさんでしまうことも知っています。だから、人生の意味ってなんだろうと、すぐに思ってしまうのです。
お金とか名声は、泡のようなもので妬みのもとになります。世の非難(利害関係から生じる)や批判は妬みから発生します。この妬みを超越した人間はほとんどいないと思います。
聖書に出てくるサタンはこの妬みにつけ込み人間を悪に導きます。人間をコントロールするには、妬みにつけ込むのが一番なのでしょうね。これが聖書の言う人間の罪の本質である自己中心性なのでしょう。
人は自分の利益に益すると思えばその人をほめそやし、利に反すると思えばその人を悪く言います。これなど今までわたしが歩いてきた人生そのものです。おそらくこれが人間界の実相なのでしょう。
聖書は、物の善し悪しの判断を神の裁量に委ねなさい、と言っています。それはどうして知るのかといえば、聖書を祈りながら読みなさい、そして、聖霊の助けを得てそこに書いてある御言葉から判断しなさいということです。
聖書は、神の言葉ですから書いてあることは絶対で、普遍です。だからゆるぎない判断ができるということです。
これが、妬みの外に立つ秘訣となる、ということです。祈りながら読み、得られた判断を実行する時に、心が平安であればその判断は神の御心といえるのでしょう。
御心でなければそれを実行しょうとすれば心騒ぐものです。
なお、クリスチャンによっては、神が祈りに応えられる声が聞こえたという人もいます。神様は祈る人に合った方法でその人を導かれるのでしょう。
これはクリスチャンが実践しているものの善し悪しを判断する方法ですが、クリスチャンでも、現世を生きている人間ですから、目の前のことに、目の前の利害に捉われて、なかなか正確な神の御心に適った判断は難しいのが事実です。人間の願いが神の御心と違うのは良くあることですが、それでも「願い求めれば叶えられる」ということを信じて祈ります。
余りにも聖書の教えからかけ離れた人生を走ってきたわたしも、60歳も過ぎて、現役をリタイアすれば、物事をある程度冷静に客観的に見ることができるようになります。
これからは聖書を研究することに重点を移して生きなさいと言われれば応えられる環境が与えられているのだと思います。
神様は今のわたしに、世の出来事に一喜一憂せずに、聖書から何が真理かを学びなさいと言われているような気がするのです。
このような年齢まで生かせて下さって、聖書を学ぶチャンスを下さった神様に感謝しなくてはと思います。これが、これから迎える老境に花を添えてくれるようになれば幸いです。
60歳も過ぎれば、結婚や就職、家庭のこと、育児や教育のこと、それに職業の問題など、殆どの人はこれらのことからある程度解放されます。
そのように思えば、老境を迎えるのも悪くはないものです。時間はたっぷりありますから、いやたっぷりあると思っていても、時間とはあってないもの。
明日の命さえままならない人間ですから明日のことは分かりません。そのように考えれば、その日その日を大切にしなければと思います。
朝目が覚めたら、新しい一日を与えられたことに感謝し、生かされていることを喜んで、平安にその日一日を送ることができたら幸いです。
ただ、人間は、世と共に生きるから人間なのですから、余り内にこもって世捨て人にならないように気をつけなければと思います。
このようなわたしも、神の作品の一つです。わたしという神の作品を完成させるために神は何を望んでおられるのでしょうか。
イエスと出会うのが遅かったけれども、きっと出会った時が最善なのでしょう。妬みが渦巻くこの世で、神がわたしに予定されている仕事を全うさせてくださるように祈りたいと思います。
それにしても、生身の人間の妬みが渦巻く中でのものの善し悪しの判断は、なかなか難しいものがあります。どうすればよいかは分かっても、持って生まれた性ゆえに、なかなかそのように出来ないのも人間です。
人の弱さをそのままの姿で受け入れてくださるのがキリストの神です。
« 不条理について | トップページ | 人生していますか »
「聖書と人生」カテゴリの記事
- わが人生を振り返る(2013.06.27)
- 人生で道に迷ったら(2013.06.26)
- クリスチャンとして生きる(2011.09.19)
- 何が幸せか(2)(2011.08.04)
- 何が幸せか(1)(2011.08.01)
コメント