この世の不公平
今日は雨、釣りにも行けない。晴釣雨読の生活を初めて早一年を超えました。おかげで色々考える時間が増え感謝しています。
きっと、神様が私にもう少ししっかりと物事を考えなさいと、与えてくださった時間でしょうか。
今日は、この世の不公平について考えてみました。
これは大変難しい問題です。この世は、なぜこんなに不公平なのだろう。を考えてみたいと思います。いつもの通り、最初に聖書を紐解くと、神はすべての人間を愛されている。
人間は無条件で神の一方的な恵みを受けている。能力ある人も恵まれた人もそれは神の恵みであるから高慢になってはいけない。神に感謝しなさい。
この世で起こることはすべて無駄はなく、神はその人の為にそれらを益にしてくださる。
ローマの信徒への手紙第8章28節「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」。御計画により召された人(神を信じた人)という条件付きですが。
人間は一人でもかけがえのない大切な存在だ。だから神から離れて死ぬ(霊的に)べき運命にあった人間を、神は一人でも多く救おうとされている。
そのために。神は自分の御子を人間としてこの世に使わされて十字架にかけさせられた。大まかには、こんなものでしょうか。
それほど、人間を愛されている神がなぜ人間を不公平の状態で放置されているのだろうか。すくなくとも現世しか見ていない人間にはそのように見えます。
自分では選べない、生まれ持った環境には不公平が歴然としてあるのは明らかですが、人間一人一人が神から受けている能力とか賜物も、各々違うことも不公平の原因だと思うのです。そこに何か意味があるのでしょうけれど。
そして、キリスト教では必ず原因があれば結果があると教えている。今はどんなに幸せでも、またどんなに不幸でも、その報いは、この地上で生きているときでなくても、必ず最後の審判のときに地上でのその人の行いに応じて裁かれる、ということになっています。
この世に生きているときにイエスのみ言葉を信じた人も、天国へ行ける約束ですが、その行いにより報いを受けます。創造主がおられるなら、人間が被造物なら御計画があって造られたと思うので、初めがあれば終わりがあるのは当たり前です。
生まれつきの病は、前世のたたりでなく、神の御業であるといわれています。つまり、この世の出来事の何もかもが神に支配されていることになる。
もちろん、サタンもこの世で活躍しているから、人間はサタンの影響も受けるので罪を犯します。神は、罪を犯してもわたしを信じ、悔い改めたら赦す、といわれています。
ルカによる福音書第5章32節「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」とイエスは言っておられます。
イエスの教えは、この世のわたしたちの価値観から見れば、逆転の発想が多いので、逆転の発想で、その人が不公平の状態で置かれているということは、逆に神様に愛されているからとは考えられないだろうか。
つまり、この世の、艱難も神の祝福と考えるのです。受ける艱難も、賜物も色々、人間一人一人全て違うので、それは意味あってのこと。だから、その人の受けた艱難と賜物でこの世を生きなさいと言われている。
一人一人の人生で、持っているものが違うことが、人間にはきっと必要なことなのでしょう。だからイエスは、持って生まれた賜物は、その大きさでなく用い方が大切だと言われています。
その上で、互いに愛し合いなさいといわれている。このように考えると、人間は全員オンリーワンですね。
聖書では、神様に愛されている人ほど艱難に会っています。その人たちは、艱難を訓練ととらえています。
ならば訓練される機会もなく死んでしまったら、その人はどうなるのでしょうか。死んだ後で訓練されるのでしょうか。そうかも知れない。このことは、確か聖書には書いていないと思います。
どちらにしても、現世しか見えない人間には、本人の努力ではどうしょうもない不公平ばかりが見えて、たまったものじゃないです。ひょっとしたら、そうじゃないのだよ、ということを教えにイエスはこの世にこられたのかも?
もし、神が言われた「あなたは高価で貴い」ということを伝えにイエスがこの世に来られたのなら、この世でその人の責任によらずに不幸な人生を送られた方は、その不幸はきっと神様のあなたに対するご計画で、その人は来世に行けば神様から祝福されてもおかしくはないと思います。
逆に、その人の努力によらずして、生まれ持った才能と健康に恵まれ平和で裕福な人生を送られた方は、来世に行けば「あなたの恵みは十分である」と言われかねません。
だから私は思うのです。人を見て比べるのは無意味なこと、与えられた環境でわたしがいかに生きるべきがが問われているのだと思うのです。
このようなイエスの言葉があります。マタイに福音書第5章45節「・・父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
善人にも悪人にも神は差別なくあらゆる機会を与えて下さる。決してえこひいきはされない。それは、終わりの日の裁きの時に、だれも言い訳が出来ないようにするためであると解説されています。
この世の出来事だけを見るから不公平であって、この世は来世につながる一里塚と考えれば決して不公平ではない。最後には、必ず帳尻が合うようになっているのですね。
不公平とか不条理にぶつぶつ言っているだけでなく、神様はそれらはすべて御存じであるから真面目に生きていれば決して悪い様にはされないと思います。
神様を信じると言うことはイエスの言葉を信じることです。ぼやく前に聖書を紐解いてみませんか。
人間は無条件で神の一方的な恵みを受けている。能力ある人も恵まれた人もそれは神の恵みであるから高慢になってはいけない。神に感謝しなさい。
この世で起こることはすべて無駄はなく、神はその人の為にそれらを益にしてくださる。
ローマの信徒への手紙第8章28節「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」。御計画により召された人(神を信じた人)という条件付きですが。
人間は一人でもかけがえのない大切な存在だ。だから神から離れて死ぬ(霊的に)べき運命にあった人間を、神は一人でも多く救おうとされている。
そのために。神は自分の御子を人間としてこの世に使わされて十字架にかけさせられた。大まかには、こんなものでしょうか。
それほど、人間を愛されている神がなぜ人間を不公平の状態で放置されているのだろうか。すくなくとも現世しか見ていない人間にはそのように見えます。
自分では選べない、生まれ持った環境には不公平が歴然としてあるのは明らかですが、人間一人一人が神から受けている能力とか賜物も、各々違うことも不公平の原因だと思うのです。そこに何か意味があるのでしょうけれど。
そして、キリスト教では必ず原因があれば結果があると教えている。今はどんなに幸せでも、またどんなに不幸でも、その報いは、この地上で生きているときでなくても、必ず最後の審判のときに地上でのその人の行いに応じて裁かれる、ということになっています。
この世に生きているときにイエスのみ言葉を信じた人も、天国へ行ける約束ですが、その行いにより報いを受けます。創造主がおられるなら、人間が被造物なら御計画があって造られたと思うので、初めがあれば終わりがあるのは当たり前です。
生まれつきの病は、前世のたたりでなく、神の御業であるといわれています。つまり、この世の出来事の何もかもが神に支配されていることになる。
もちろん、サタンもこの世で活躍しているから、人間はサタンの影響も受けるので罪を犯します。神は、罪を犯してもわたしを信じ、悔い改めたら赦す、といわれています。
ルカによる福音書第5章32節「わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」とイエスは言っておられます。
イエスの教えは、この世のわたしたちの価値観から見れば、逆転の発想が多いので、逆転の発想で、その人が不公平の状態で置かれているということは、逆に神様に愛されているからとは考えられないだろうか。
つまり、この世の、艱難も神の祝福と考えるのです。受ける艱難も、賜物も色々、人間一人一人全て違うので、それは意味あってのこと。だから、その人の受けた艱難と賜物でこの世を生きなさいと言われている。
一人一人の人生で、持っているものが違うことが、人間にはきっと必要なことなのでしょう。だからイエスは、持って生まれた賜物は、その大きさでなく用い方が大切だと言われています。
その上で、互いに愛し合いなさいといわれている。このように考えると、人間は全員オンリーワンですね。
聖書では、神様に愛されている人ほど艱難に会っています。その人たちは、艱難を訓練ととらえています。
ならば訓練される機会もなく死んでしまったら、その人はどうなるのでしょうか。死んだ後で訓練されるのでしょうか。そうかも知れない。このことは、確か聖書には書いていないと思います。
どちらにしても、現世しか見えない人間には、本人の努力ではどうしょうもない不公平ばかりが見えて、たまったものじゃないです。ひょっとしたら、そうじゃないのだよ、ということを教えにイエスはこの世にこられたのかも?
もし、神が言われた「あなたは高価で貴い」ということを伝えにイエスがこの世に来られたのなら、この世でその人の責任によらずに不幸な人生を送られた方は、その不幸はきっと神様のあなたに対するご計画で、その人は来世に行けば神様から祝福されてもおかしくはないと思います。
逆に、その人の努力によらずして、生まれ持った才能と健康に恵まれ平和で裕福な人生を送られた方は、来世に行けば「あなたの恵みは十分である」と言われかねません。
だから私は思うのです。人を見て比べるのは無意味なこと、与えられた環境でわたしがいかに生きるべきがが問われているのだと思うのです。
このようなイエスの言葉があります。マタイに福音書第5章45節「・・父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
善人にも悪人にも神は差別なくあらゆる機会を与えて下さる。決してえこひいきはされない。それは、終わりの日の裁きの時に、だれも言い訳が出来ないようにするためであると解説されています。
この世の出来事だけを見るから不公平であって、この世は来世につながる一里塚と考えれば決して不公平ではない。最後には、必ず帳尻が合うようになっているのですね。
不公平とか不条理にぶつぶつ言っているだけでなく、神様はそれらはすべて御存じであるから真面目に生きていれば決して悪い様にはされないと思います。
神様を信じると言うことはイエスの言葉を信じることです。ぼやく前に聖書を紐解いてみませんか。
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